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馬鹿ばかしいほど、真剣に。

あれを思いついたのは、いつごろだっただろう。

たぶん黒澤明監督作品をいちばん熱心に観て、彼に関する本をたくさん読んでいた大学のころ、「あー、要するにこれはSFなんだな」と思ったことがある。黒澤さんは、民放の時代劇はもちろん、大河ドラマの時代劇にものすごく厳しかった。おもしろいとかおもしろくないとか以前に、時代考証がまったくなされておらず、甲冑の着方、紐の結び方などもめちゃくちゃなのだという。天下のNHKがあんなものを放送していたら、間違った常識が定着してしまう。そんなふうに怒っておられた。

とはいえ、どれだけたくさんの資料にあたって入念な時代考証をおこなったところで、ある地点から先は「想像」や「空想」に突入せざるを得ない。もちろんそこでの想像や空想は、とことん理詰めで考えられた、合理的答えである。

ってことは、あらゆる時代劇はサイエンス・フィクションだ。映画やテレビドラマにかぎらず、歴史小説だってサイエンス・フィクションだ。おお、司馬遼太郎さんよ、あなたはハヤカワSF文庫の作家たちと同じ力でもって、数多の名作を書いていたんだな。そんなふうに得心したのである。


で、その記憶が残っていたせいだろう。30歳前後のある時期に、こんな本の企画を考えていた。

歴史小説家たちと同じくらいがんばって、ある人物やその時代について調べまくる。それがどれくらいに大変な作業だか想像もつかないけど、とにかく阿呆ほど調べまくる。たとえば織田信長なら織田信長という人物について、自分なりに一冊の一代記が書けると思えるくらいに調べまくる。


そのうえでそれを小説とせず、インタビュー本にしてしまう。

現代に生きるわれわれが、織田信長にインタビューする本。織田信長が、その出生から本能寺までを語り尽くす本。当然そこには「誰も知らなかった新事実」もフィクションのひとつとして盛り込む。うまくつくればこれ、小説よりもおもしろくなるんじゃないか。史実とフィクションのあわい、小説とインタビューのあわい、独白と対話のあわい。まったくあたらしい本ができるんじゃないだろうか。考えれば考えるほど、ぼくは興奮した。


けれどもまあ、よくよく考えればこの形式、いわゆるところの「霊言インタビュー」と変わらないものだったのだ。伸びに伸び盛っていた企画の芽は、見るも無惨にしぼんでいった。


ただねー。最近気づいたんだけど『嫌われる勇気』にはちょっと、その成分があるんだよなー。

どんなに馬鹿ばかしい企画であっても、いや馬鹿ばかしい企画であるほど、一度ギリギリまで真剣に考えていると、いつか役立つことがあるかもしれないよ、と自分に思ったのでした。