見出し画像

砂糖やバターはおいしいけれど。

砂糖はおいしい。

誰もが知っていることだ。砂糖が入った菓子、砂糖が入ったジュース、砂糖が入った煮物。これらはだいたいおいしい。そしてまた、バターをおいしく食べる人も多い。砂糖に較べれば好き嫌いもありそうだけど、バターの入った菓子やバターを使った料理には、「そんなのずるいよ」と言いたくなるくらいストレートな、問答無用のうまさがある。

しかし不思議なことに、砂糖をそのままじゃりじゃりと手づかみで食べる人はいない。あんなにおいしいにもかかわらず。そしてバターについても、バナナのように皮(銀紙)をむいてむしゃむしゃかぶりつく人はいない。あんなにうまいにもかかわらず。

砂糖にせよバターにせよ、そこには適量というものがあり、その範囲を守っているからこそ、おいしいのだ。そしてこれらはそのままむしゃぶり食うものではまったくなく、調味料としてなんらかの食材に加えてこそ、その真価を発揮するのだ。


このところ「おれのSNS離れ」についてよく考える。

どうして自分はソーシャルメディア全般から距離を置くようになったのか。発信・発言をしなくなっただけでなく、見たり追ったりする時間まで減っていったのか。

そのヒントが砂糖であり、バターであるように思ったのである。

タイムラインという「おおきなトースト」に、誰かがバターとしての愉快な投稿を塗る。そのかぎりにおいてソーシャルメディアはおもしろい場所なんだけれど、みんながみんなバターを投稿しはじめたら、そりゃあ胃もたれする。飲み込むことができないのはもちろん、目にするだけで気分が悪くなったりもする。

けれどもみんな、砂糖やバターの投稿をやめない。仕様の変更によって、そういうものばかりが「砂糖が好きなんでしょ?」「バター大好きでしょ?」と表示される。わりと粗悪な、砂糖やバターが。

noteも含めたソーシャルメディアでは、なんだかんだと砂糖やバターの含まれた投稿が受けやすい。でもなー。ほんとに長く求められるのは、お米のごはんであり、粉と塩だけでつくったバゲットだと思うんだよ。そういう胃もたれのしない主食が、ぼくは食べたいんだよ。

あいかわらず学びも気づきも刺激もない、砂糖やバターを使わないnoteを書いてるけどさ、こういうおにぎりがあってもいいよね。