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芸人さんの家賃と、おのれの振る舞い。

芸人さんたちはしばしば、自宅の家賃について語る。

とくに大阪から上京してきた芸人さんたちにその傾向が強い。なんでも彼らのあいだでは「ちょっと無理をするくらいの家を借りろ」との教えがあるのだそうだ。毎月の支払いにヒヤヒヤするくらいの家に住む。住むところがなくなるプレッシャーを日々感じながら仕事に臨む。そうするとやがて、仕事が家賃に追いついてくる。そして追いつかれたならまた、「ちょっと無理をするくらい」の家に引っ越す。それが成り上がっていく秘訣なのだと彼らは言う。

なるほど理屈としてはわからなくもない。

たとえば、仕事をするうえで「生意気な若者」とされる人たちがいる。ここでの生意気とは多くの場合、「偉そうな若者」のことである。偉いわけじゃない。「偉そう」なのだ。つまり、まだこれといった結果も実績も残していないにもかかわらず、偉い人(すごい実績を残している人)であるかのように振る舞っている。それが「偉そう」ということであり、「生意気」の正体である。

しかし、そうやって偉そうに、自分のサイズを超えた振る舞いをくり返しているうちに、それなりの結果を出していく人たちもいる。「地位が人をつくる」とか「家賃が収入をつくる」と同じように、「振る舞いに結果がついてくる」わけだ。

これは商品に置き換えるとわかりやすいのだけど、たとえば人は「おもしろそう」と思って、その本を買う。「おいしそう」と思って、その料理を注文する。「たのしそう」と思って旅行先を選び、「効きそう」と思って風邪薬を買うのだ。おもしろいから買う、おいしいから注文する、ではないのである。その理屈でいうと「偉そう」だって、当人がそこに付随する軋轢を我慢することができれば、ほとんど「偉い」の入口に立っているに等しい。ぺこぺこ頭を下げてばかりの人より、うまくいく仕事も当然あるだろう。


一方、まわりの人の目にどう映っていたかはともかくとして、ぼくは一貫して謙虚な態度を守ってきた。なにもやってないうちから偉そうに振る舞ったり、生意気なことを言ってきたつもりは、ぜんぜんない。仕事についての妙な自信は、若いころから持っていたように思うけれども。

ただ、どうなんだろうなあ。

ぼくが若いころは偉そうに振る舞う場が、そもそもなかったんだよな。同業の知り合いはほとんどおらず、まわりの編集者は年上のエリートばかりで、もちろん後輩なんているはずもなく、ずーっと見上げてばっかりだった気がする。そしてそれは楽だったし、自分の性格に合っていたんだろうなあ、と思うのだ。そのときどきで、尊敬できる人たちがまわりに何人もいたし。

まあ、こんなふうに書いてるぼくを「偉そうにしやがって」と思う人だって当然いるはずで、他人の評価というのはコントロールできないものなんだけども、ぼくがあこがれてきたのはいつも「偉そうにしない」人だったなあ、と思うのである。