見出し画像

打ち合わせはいいな。

きのう、次に書く本の打ち合わせをした。

テーマや方向性についてはもう、ずいぶん前に決まっていた。ずっとやりたかった企画だし、たぶん出版する意義もある。ただひとつだけ、ぼくのなかで引っかかっていたことがあった。

「これって『おもしろい』のか?」である。


実現できているかどうかは別として、ぼくはすべての本の目標に「おもしろい」を置いている。たとえば、いかにも硬派な面構えをした『取材・執筆・推敲』という本にしても、「読みものとしておもしろい」が脱稿の第一条件だった。

さらに誤解を受けそうな話をすると、いわゆる「いい本」をつくるのは、そんなにむずかしい話じゃない。大事なことが書かれていたり、貴重なことが書かれていたりすれば、それは「いい本」だ。その意味で学術書や専門書の多くは「いい本」である。問われるのは書かれた内容であり、その正確性や妥当性であり、編集のていねいさだ。

ただし、本を書いている当人、また編集者にとっては、どんな本であっても「大事なこと」が書かれている。出版までにはそれなりの苦楽をともにしている。そのため本としての出来がいまいちだったり、売上げが伴わなかったりしたときにも、するべき反省をしっかりしないまま「売れなかったけど、いい本だったよね」と慰め合うことが多い。このことばには誰も反対できないし、やがて自身に「いい本は売れない」「売れてる本はよくない本だ」という誤った認識まで植えつけかねない。かような次第で当事者の語る「いい本」は、あまり当てにならないことばだとぼくは思っている。


で、「おもしろい」だ。

次に書く予定の本について、それが「いい本」であることは最初からわかっていた。テーマも方向性も、書くであろう内容も、ちゃんと「いい」。反対する人はいないんじゃないかっていうくらい、まっとうな本だ。でも、「おもしろい」が足りない。言い換えるなら、問答無用のアイデアが足りない。そこがずっと気になっていた。

そんな不安を抱えたまま臨んだきのうの打ち合わせで、ふと口からでまかせがあふれ出た。「こんなふうにできるかもしれませんね」と、でたらめなアイデアが口をついた。もしもほんとうにやるとなったら滅茶苦茶に大変な、それこそ年単位での潜伏生活が必要なくらいのでまかせだ。「そんなこと、ほんとうにできる?」と自分で自分を疑うような。

けれど、口にしたそれはとても痛快なアイデアだった。編集者さんも「超いい! 超いいです、それ! やりましょう!」と乗ってくれる。まじかー、やるのかー、ほんとにやるのかー。苦りきった顔で頭をかきながら、口元は笑っていた。ようやく「おもしろい」が見えてきたのだ。

打ち合わせはいいな。顔を合わせた打ち合わせじゃないと、あんなでたらめやでまかせは出てこないもんな。


……きょうからさっそく、準備に入ります。