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ことばを外気に触れさせる前に。

言葉というのは不思議なもので。

こころがざわついているとき、なんでも無闇に書かないほうがいい。書きたくなる自分、言いたくなる自分はいるだろうが、「無闇に」書くことはよしたほうがいい。たとえそれが自分の発した言葉であっても、人の思考は言葉に引きずられていく。なんとなく書いた言葉のほうへ、自分をいざなっていく。そして奥の奥、ぬかるみだらけの湿地帯へと足を踏み入れ、もはやそこから出られなくなる。

 ことばは、とくに文章は、木工用の接着剤に似ている。
 白濁した木工用接着剤を、板の上に絞り出す。外気に触れた接着剤の表面に、うすい膜ができる。液体だったはずの接着剤は少しずつ可塑性を失い、やがて干涸らびた透明な固体へとその姿を変える。こうなるともう、接着も変形もできない。
 文章も同じだ。あたまのなかで思いをめぐらせているあいだ、ことばはかたちを持たない。いくらでも変化する粘性、可塑性、可能性を持っている。
しかし、ひとたび文字にして外気に触れさせた瞬間、ことばは硬化をはじめる。時間の経過とともにそれは、ほとんど動かしがたいものとして原稿に固着する。ことばそのものが固まるのではない。硬化するのは、書き手の思考だ。

取材・執筆・推敲』 P211 ことばを外気に触れさせる前に

各所でしばしば、「あの人はツイッターをはじめてからおかしくなった」という声(人物評)を耳にする。専門領域で一定の評価を得ていたはずの人にかぎって、その罠にはまる。おそらくそれは自己顕示欲とか承認欲求とかの話ではなく、「つい言ってしまう」「つい書いてしまう」ソーシャルメディアの特性ゆえの罠なのだと思う。こんな「場」さえなければ、もうちょっとひとりで言葉を練っていただろうに、自分の思いを確かめていただろうに、それをしないままツイートしてしまい、その言葉に自分が引きずられていっているのだ、たぶん。

言葉がなければ、考えることはできない。感じることはできたとしても、それを「考え」にまで発展させるにはかならず言葉が必要になる。けれど、うっかり口をすべらせてしまった言葉がいつしかその人の考えを規定してしまうことも、大いにある。言霊とか引き寄せとかの話ではなく、もっとたしかで、しかも厄介なこととして。

むずかしいよ、言葉って。