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日活ロマン主義

3月も中旬、活動の季節です。

就活、婚活、あるいは妊活。いつのころからか、なにかをゲットするために励む行為を「○活」のことばで略することが一般的になってきました。もしかすると恋人をゲットするために合コンやパーティー出席に励む行為のことも、そのうち「カレ活」だの「カノ活」だのと呼ぶようになるのかもしれません。

しかし、「○活」の元祖といえば、やはり「日活」でしょう。石原裕次郎、宍戸錠、小林旭らの日活ニューフェイス、さらには70年代以降のロマンポルノ路線などで知られる会社です。当然、日活は日本国をゲットすべく地下工作活動に励んでいた会社などではなく、純然たる映画の製作配給会社であって、創業時の名称は「日本活動写真株式会社」になります。就活とも婚活とも、ことばの成り立ちが違うわけです。

こんな話をしたのも他でもありません。高校時代のぼくは、就活から日活への道を考えていたのです。つまり、大学で映画のイロハを習得し、卒業後には映画会社に就職、ゆくゆくは映画監督になりたいと夢見ていたんですね。

調べてみると、地元の九州に芸術学部写真学科を擁する大学があり、どうやら1秒の受験勉強も必要ない偏差値のよう。所属していたサッカー部が全国大会に出場し、そっちに集中したかったこともあり、ぼくは早々に難関大学への受験をあきらめ、ポンコツ大学の芸術学部への進学を決意しました。映像を学び、映画をつくる機会さえ与えられれば、あとはPFF(ぴあフィルムフェスティバル)なんかで大々的に賞をいただき、華々しい監督デビューが飾れるくらいに考えていたのです。

映画は、想像以上にむずかしいものでした。脚本をつくるのはおもしろい。むしろ得意の分野に入る。エイゼンシュテインのモンタージュ理論にはじまる編集技術を学ぶのもおもしろい。撮りたい「絵」も、いちおうは具体的に浮かんでいる。でも、自分のあたまのなかにしかない「絵」を、どうやってスタッフのみんなに伝え、共有するのか。これがさっぱりわからないし、まあ困難を極めるわけです。

結果、大学時代にぼくのつくった映画はわれながらひどい出来で、とてもコンテストに応募できるレベルでないどころか、典型的な黒歴史となり、どうやら自分に監督は無理だとあきらめるところから、ぼくの就活はスタートしました。

映画監督は中学時代からの夢です。その道がくじかれて、じゃあ自分はなにをするのか。よりにもよってこんなポンコツ大学に進んでしまった自分は、どこに行けばいいのか。かろうじて浮かんだ希望は、小説家でした。

小学生のころから何本か小説を書いた経験もあり、本もそれなりに読んでいたこともあり、そして映画そのものは大失敗したけど脚本はおもしろかったはずだとの自負もあり、書くことだったら苦にもならないし、自分も生きていけるだろう、と考えたのです。

しかし、みんながリクルートスーツを着て就活に励みはじめたころ、はたと気づきます。「小説家の就活ってどうすればいいんだ?」。いくら世間知らずのポンコツとはいえ、どこかのお偉いさんの面接を受けて「うーん、きみは見込みがあるね。よし、小説家として採用しよう」なんてシステムが存在しないことくらい、容易に想像がつきました。

ここは親の教育に感謝すべきところでしょうが、「就職しない」という選択はありませんでした。結局、ぼくは「定時に上がれる仕事を選んで、夜の時間に小説を書いて、群像や文學界の新人賞に応募して、華々しくデビューしよう」と、またも一発逆転のライフプランを立て、「じゃあ定時に上がれる仕事ってなんだ?」と本格的な就活をスタートさせます。

せっかく働くのだから、なにかそこで働いたことがその後の人生でプラスになる仕事がいい。自分は人見知りが激しいから、それを克服できるような仕事がいいだろう。だったら接客業だ。よし、接客業のなかで、いちばんラクな仕事に就こう。

いま考えるとアホ丸出しですが、当時としてはかなりのロジカルシンキングを経たつもりで、ぼくは接客業を中心に就活に臨み、最終的に「みんな優雅にレンズを拭いてるだけ」で「フレームより重いものを持たなくていい」という見た目の理由から、全国チェーンのメガネ屋さんに就職しました。場を与えられれば全力を尽くす、が信条の男です。翌年には幹部候補生に選出されるほどの出世ぶりでした。

それがなぜ、ライターになり、いまこんな日記を書いているのか。

まったくわかりません。ひとつだけわかっているのは、進学も就活も、なんら深刻になるようなイベントじゃなく、人生なんて明日からでも一変できるんだし、おれらの人生よくもわるくもそんなもんですよ、という事実だけです。

先週月曜日に引き続き、本日はみんなでテーマを設定して書く「同時日記」の note でした。長くなってしまったね。

#同時日記 #就活