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読めたもんじゃない文章。

できることならわたしは。

たとえば毎日書くここの note には、読んでたのしいことを書いていたい。誰かを攻撃するような文言だったり、誰かを傷つけるような文言はなるべく避け、かといって真面目ぶった話題に流されることなく、毒でも薬でもないおのれの日常を記すだけでもなく、(笑ってもらう必要はないものの)読んでたのしいなにかを書いていたい。じぶんの意図しないところで誰かを傷つける結果になることは、当然ある。残念だけど、当然ある。けれど、それと自覚的な「あいつ(ら)を傷つけてやろう」の気持ちを持つことはまったく別の話だ。

人はなぜ、「あいつ(ら)を傷つけてやろう」の気持ちを持つのだろうか。

じぶんに引き寄せて考えるなら、きっと「せいせいしたい」のだと思う。攻撃的な文言でもって誰かにことばの刃を向ける。ばっさりと斬りつけたり、速射砲のようにその弾を撃ちまくったりする。物理的な刃物や弾丸と違ってそれで相手が血を流すわけではない。効き目もよくわからない。けれど、言えばせいせいする。すっきりする。ことばの刃は相手を傷つけることよりもむしろ、みずからの心のドロドロ(言い換えるならば腫瘍)を切除するために用いられる。


さて、ここからはちょっと職業病的な話になる。じつを言うとぼくは若いころ、かなり激しいことばで人を斬りつける人間だった。口が悪いというよりも、ひたすら攻撃的な人間だった。それがライターという職に就き、年月を重ねていくうちにいつしか、そういうことばを使わなくなった。より正確に言うなら、ことばをそういう目的に使わなくなった。ことばとは、ことに文章とは、「読む人」のために書かれるものであり、「おれ」ひとりのために書くのは違う、と思うようになったからだ。少なくともライターの書く文章は、すべて「読む人」のために存在するべきだとぼくは思っている。

やさしく書こうとか、マイルドに書こうとか、そういう話ではない。まっとうな批判を否定するつもりはさらさらないし、むしろそれは社会に必要なことだ。ただし「おれ」個人の、しかも「せいせいしたい」みたいに独善的な欲求のためごときに攻撃のことばを使わない。いわんや、人目に触れる場所にその薄汚いことばを放置しない。できることならぼくは、そんなじぶんでありたい。

心のなかにドロドロがたまることは、誰にでもある。発散させたい気持ちもよくわかるし、どこかで発散させるべきなのだろう。心のドロドロも、考えに考えて「読めるもの」にまで昇華させていけば当然、ちゃんとした読みものになっていく。「読めたもんじゃない文章」とは、技術的に拙劣な文章を指すのではなく、考えるプロセスを省いて吐き出された、「おれ」や「わたし」の充足のためだけに書かれた文章なのだ。