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音楽好きの私信として。

きのう、川口でシェイクスピア劇を観た。

木村龍之介さん率いるカクシンハンのプロデュースによる『シン・タイタス ROBORN』だ。タイトルにあるタイタスとは、シェイクスピア「タイタス・アンドロニカス」のこと。残酷にして不道徳でありながらまあ、すばらしい舞台だった。

カクシンハンの舞台はこれまで2度、経験している。『ハムレット』と『冬物語』だ。

演劇にもシェイクスピアにも詳しくない人間として、当時の直感的な気持ちを言うと、「デヴィッド・ボウイみたいな人たちだ」だった。

現代、または日本、そしてご自身の空虚さにどこまでも自覚的で、それだからこそ記号的に、無機的でチープなしつらえをクロスオーバーさせて、あたらしい価値を生み出そうともがき苦しむ。そんなデヴィッド・ボウイ的混沌をカクシンハンには感じていた。シェイクスピアという古城に身を置きながら、「破る」「はみ出す」「広げる」ことによって現代性を獲得しようとしているように、ぼくの目には映った。

しかし今回の『シン・タイタス ROBORN』は違った。

多種多様な要素をクロスオーバーさせているようでありながら、「破る」とか「はみ出す」とかを志向せず、もともとシェイクスピア劇が持っていたであろうものを「引き出す」ことに、全精力が注がれているように思えた。


たとえばデヴィッド・ボウイ最大のヒットソング『レッツ・ダンス』は、(ナイル・ロジャースによる)最新のダンスミュージックに、(スティーヴィ・レイ・ヴォーンによる)極上のブルースギターをかけ合わせることによって生まれている。イントロのコーラスはもちろんビートルズだ。

で、それはそれでおもしろいし画期的だし、そういうわかりやすい足し算の実験がデヴィッド・ボウイの魅力なんだけど、どこかコンセプト優先というか、「頭でつくっている」感じが拭えなかったりする。

一方で『シン・タイタス ROBORN』は——いかにもそう見える要素はありながら——足し算の実験ではなく、物語の奥へ奥へと入り込んでいって臓腑を引きずり出してきた、みたいな迫力があった。とても実験的なしつらえでありながら、ちっともコンセプチュアルな実験臭がしなかった。木村龍之介さんという演出家が、次のステージに進む瞬間を垣間見たような気がした。再演や映像化の際には、ぜひおすすめしたい。


ほとんどの人にとっては、なにがなんやら、という話だと思う。それでも、きのうの終演後に「古賀さんのことは同じ音楽好きとして、勝手に仲間だと思っていて、どうしても今回観てほしかった」と言ってくださった木村さんへの私信として、これを書いた。

そういえば劇中、『時計じかけのオレンジ』のオマージュが挿入されていたが、帰宅後に調べてみると同作はロイヤル・シェークスピア・カンパニーによって舞台化されているらしい。