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がんばりは、報われない。

わたしはあなたのことを、こんなにも愛しているんだ。だからあなたも、わたしのことを愛してくれ。わたしと同じだけ愛してくれ。

これは典型的なストーカーの論理である。あなたがわたしをどう思っているかなど、知ったこっちゃない。わたしはあなたが嫌いなのだ。好きになれないのだ。つきまとわれる多くの人は、そう思うだろう。

では、ここでの「愛」に別のことばを代入したらどうなるだろうか。


わたしはこんなにもがんばっている。だからあなたも、わたしのことを認めてくれ。この努力に、このがんばりに、価値を置いてくれ。

ある意味これも、ストーカー的な論理といえる。あなたがどんだけがんばっていようと、がんばったつもりであろうと、そんなもん知ったこっちゃない。がんばりなんて、当たり前の大前提だ。それだけで認められることなど、あるはずがない。

誰かを擁護しようとするひとの口から「あのひともがんばっているんですよ」ということばを聞く機会は多い。だから大目に見てやってくださいよ、応援してやってくださいよ、と。でもそれは「あのひとはこんなにもあなたのことを愛しているんですよ。だから好きになってあげてくださいよ」の擁護と本質的に変わらない。無理だろうそれは、としか言いようがない。がんばりは、それ自体で価値を提供できるわけではないのだ。

ストーカー的な愛がおそろしいのは、報われない愛を捧げるわたしが崇高なる善になり、そのわたしの愛を拒絶する相手が憎むべき悪になり、いっそ傷つけてしまってもいい、亡き者にしてしまってもいい、という妄想にまで転化していくところだ。おそらく「こんなにがんばっているのに、報われない」に執着しているひとは、誰かを攻撃することによって自らの善を実感しようとするだろう。

エーリッヒ・フロムは「愛は技術」だと言った。

同じくきっと、「がんばりは技術」なのだろう。


多くのひとがそれを技術なのだと知り、その技術を学ぶ場として企業や学校の組織が機能していればいいなあ、と思う。