フリーランスの落とし穴。
今年の2月2日に書いた日記である。
“相変わらず学校のことばかり考えている
考えれば考えるほど 自分の首をしめるプランが浮かんでくる”
字の汚さはともかくとして。
ここに書かれた「自分の首をしめるプラン」とは当然、「バトンズの学校」最大の目玉ともいえる「1000枚のフィードバック」である。受講生さんたちに毎回原稿を提出してもらい、そこにたっぷりの添削と総評を返していく。インタビュー原稿については、取材音源まで提出してもらい、それを全部聴いたうえでフィードバックを返していく。
着想当時からもう、これが自分の首を絞めるプランであることはわかっていた。そして実際、すでに首が絞まりはじめている。受講生さん全員に、誠実に向き合おうとしたとき、思っていたより何倍も大変だ、これは。
とはいえ、こちらの学びが多いのも事実である。
よく言われる話ではあるものの、「教えることは、学ぶこと」なのだと痛感させられる。だからきっと大学の偉い先生なんかも、専門家に向けた専門書を書くときよりも、一般読者に向けた教養新書を書くときのほうが自分自身の「学び」は多いんじゃないかと思う。「この学校が終わる来年の2月、いちばん成長したのは古賀史健だった」みたいな話だって、大いにありえると思うようになった。
で、思ったのはフリーランスのむずかしさである。
以前のぼくがそうだったように、フリーランスの立場で仕事をする人は、基本的に「教える機会」を持たない。もちろん一緒に仕事をする(クライアントの)若手社員にあれこれ教えるような場面はあるだろうけれど、そこには切実な動機がないし、ほとんどの場合は「もういい! あとは俺がやる!」になってしまう。締切・納期から考えて、そうすることがプロジェクトにとっての正解だからだ。
そして教える機会を持たないフリーランスの人びとは、どこかで壁にぶつかる。自分のやり方が通用しなくなったことに気づかないまま歳を重ね、自分を更新する機会を持ちえないまま過去の人になっていく。組織に属することが唯一の正解だとはまったく思わないけれど、一匹狼気取りで「教える機会=学ぶ機会」を持たないままじいさんになる危険については、避けることができてよかったなあと、心から思う。
教えることは、お説教をすることではない。
教えることは、あたらしい人たちと対話の機会を設けることだ。
会社をつくり、学校をつくり、説教ベースではない対話ができていることに大きな喜びを感じている。あのままフリーランスをやっていたら、とんでもないことになってただろうなあ、と。