だである調と、ですます調。
きのうに引き続き、本日も予約投稿である。
と、なにげなく書いた一文からもわかるように、ぼくはさまざまの文章を「○○だ」「○○である」と、「だである調」で書くことが多い。「ですます調」で書くこともたまにあるけれど、「だである調」が基本である。偉そうに映るのかもしれないし、鼻についたりするのかもしれないけれど、自分の生理に「だである調」が合っている。
では、どういうときに「ですます調」を使うのか。
これは端的に、「あなた」がいる場合である。もっとわかりやすく言えば、手紙のように書くときである。
たとえば友だちや仕事相手に送るメール。もしくは手紙。これを「だである調」で書くことはできない。相手に対して失礼だから、なんて話ではなく、ことばの原理として「だである調」は使えない。そしてまた、論文で「ですます調」を使う人もいないだろう。新聞だって原則は「だである調」だ。
つまり、「だである調」と「ですます調」の違いは、ていねいさとか尊大さとかのところにあるのではなく、もっぱら二人称にかかっている。ことばの先に明確な二人称(あなた、きみ、おまえ)を想定するとき、そのことばはおのずと「ですます調」のかたちを取り、ことばの先に二人称を設けないとき、そのことばは「だである調」を選びうる。
さて、このように整理すると、逆に「読み手である『あなた』を想定しない文章って、どんな文章だ?」との疑問が湧きあがるだろう。「だである調」への疑問が湧きあがるだろう。
ここにおいてぼくは「読者はじぶん」の説を唱えたくなるのだ。わたしはいま、わたしに向かってこのことばを書いている。わたしを理解するために、わたしを記録するために、わたしの試みを残すために、これを書いている。ただし、わたしはこれをわたしひとりの箱にしまっておくつもりはない。もしも読んでくださる人がいるのなら、もちろん読んでほしい。ただしこれは「あなた」に宛てて書いたものではなく、「わたし」に宛てて書いたものであり、もしかすると「世界」に宛てて書いたものである。——そういう、ある種の宣言性を帯びた「わたし」ことばが、「だである調」の根っこではないかと思うのだ。
もっともこれは学術的な裏付けのある話でもなんでもなく、ぼく個人がこれまでの実感から「そういうことなのかなあ」と考えたに過ぎない話である。そしてそういう仮説の域を超えない話を書くには、「だである調」のほうが向いている気がする。下手に書かれた「ですます調」は、「わたしの答えを教えてあげますよ」の厚かましさが混入する感がするのだ。