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ほめるところがない男。

はるかはるか、むかしの話。

ぼくはサッカーの専門誌「サッカーダイジェスト」に登場したことがある。ライターとしてではなく、ひとりのサッカー選手として。とはいえもちろんぼくはJリーガーであったこともないし、そもそも専門誌に採り上げられるほどのプレーヤーだったわけでもない。ただ、高校サッカー選手権大会の福岡県大会で優勝し、全国大会を前に「福岡県代表」としてチームの集合写真とメンバーの寸評が掲載されたというだけの話だ。寸評はおそらく雑誌社から依頼を受けた監督が記したものと思われる。

たとえばチームのエースだったHには、「個人技があり、強烈なミドルシュートを放つ」との寸評が添えられている。キャプテンのYには「長身を活かした堅固な守備でチームの精神的支柱」とある。仲のよかった後輩のOについては「小柄ながら豊富な運動量で中盤を構成する」との評価だ。短い文字数のなかで、それぞれがどういう選手なのか説明されている。

ひるがえってぼくにはどのような寸評が添えられていたか。



古賀史健、背番号11、FW、3年。

寸評:強じんな精神力でチームを引っぱっている。


わかる。非常によくわかる。おそらく監督は、プレーヤーとしてのぼくをどう評し、どこをどうほめたらいいか、よくわからなかったのだ。足が速いわけでもなければ、テクニックに優れているわけでもない。身体も小さく、運動量も人並みである。選手としてはなんら特筆すべき点のないサブメンバーだ。だったらひとまず「がんばり」をほめておこう。そういう判断だったのだろう。

若い時分にはこういう努力賞的な評価は、いちばん癇に触るものだ。ぼくとて長らく、この寸評には複雑な思いを抱いてきた。けれど、最近になって少し考えが変わってきたのである。

思えばライターとしての自分も、技術的に特筆すべき点はあまりない。技術よりもむしろ「強じんな精神力」によって、ここまで生き抜いてきた男だ。これといった才能があったわけでもなく、コネもカネも人脈もなく、履歴書の特技欄に「精神力」と書きたいくらいの「がんばり」だけが、拠りどころだった。

サッカーについては「まるで得意ではないこと」と「がんばり」が掛け合わされた結果、あのような結果になったのだろう。そしてライター業については「わりと得意なこと」と「がんばり」が掛け合わされて、いまに至るのだろう。いずれにせよぼくを特徴づけているキーワードはむかしから一貫して精神力であり、がんばりなのだ。浅学非才の人間としては、致し方ないところである。

場所を変えても、フィールドを変えても、どんなに時代が変わっても、「自分」の根っこは変わらないんだなあ、と思う。