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そのとき、誰の顔が浮かぶのか。

これもやっぱり、あれなのだろうか。取らぬ狸の皮算用、なのだろうか。

5月の終わり、ぼくは犬と一緒に小旅行に出た。千葉の海辺の、はじめてのホテル。おおきなドッグランが併設されたそのホテルは、まことに居心地がよく、犬本人もおおよろこびだった。食事もおいしく、スタッフさんもやさしい。もうここを定宿にしてしまおう。年に何回もここを訪ねよう。初日からそんな思いを固めるほどに、すてきなホテルだった。というか、犬のよろこぶさまが尋常じゃなかった。

で、帰宅後すぐにスケジュールを確認したぼくは、そのまま「次」の予約をとった。なんなら来週にでも行きたいくらいだけど、さすがにいい歳をした働きびととしてそれは許されまい。できれば3か月、せめて2か月の間隔をあけてから出かけるべきだろう。周到な策略を巡らせ、ぼくは8月のあたまに予約をとった。ああ、8月だったら海も気持ちいいだろうな。なんて頬を緩ませながら。



そしてこの猛暑である。酷暑である。

8月に旅行するなとは言わない。今年は仕事以外の時間をたくさんとると決めた一年だ。おおいに旅行すればよい。しかし、よりにもよって8月に避暑地でもない場所に出かけるとはなにごとだ。どうして5月の気分で8月の予定を決めてしまうのだ。だって犬、危険だぞ、酷暑のドッグランでランランさせるなんて。

……と、ここからぼくは猛暑や酷暑についての話をしたいのではなく、東京オリンピック・パラリンピックにおける暑さ対策、また小中学校のクーラー設置問題を語りたいのでもない。

今年の暑さはやべえぞ、とんでもねえぞ、命にかかわるレベルだぞ、と察知したときぼくは、真っ先に犬を思い浮かべたのだ。


もちろん、西日本の各地で復旧作業にあたっている方々、白球を追いかける高校球児、熱気のこもった教室で黒板を見上げる子どもたち。テレビニュースを見ていると、いろんな人たちの健康と安全に思いを馳せる。

けれどもぼくが、真っ先に思い浮かべたのは、犬だったのだ。

わが子を思い浮かべた人もいるだろう。実家の両親を、田舎の祖父母を思い浮かべた人もいるだろう。別の誰かを思い浮かべた人もいるだろう。


そこで誰を思い浮かべるのかは、愛情の深さによって決まるものではなく、責任感の強さによって決まるものなんだと思う。

「この人は、自分が守らなきゃ」という責任感によって。


おおきな危険が迫ったとき、誰を思い浮かべるのか。特定の誰かが思い浮かぶ人は、いい人生を送っていると言えるんじゃないのかな。たとえそれが犬であったとしても。