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病院で見た風景、思い出したことば。

「心臓が、苦しい感じですか?」

受付の看護師さんが、ていねいに問いかける。「違うんです」。ぼくよりも5歳か10歳くらい年長と思しき長身の男性が、かぶりを振る。「そうじゃなくて、きゅっ」。胸のあたりを押さえ、訴える。「喉がつっかえる感じですか?」。看護師さんの問いかけに対して男性は、ふたたびかぶりを振って、両手を握りしめながら言う。「きゅっ。ここのところが、きゅっ」。困り顔の看護師さん、「なるほど。胸が詰まるような、締めつけられるような、なにか違和感がおありなんですね」。男性は「うーん」と首を傾げつつも、伝わらないと判断したのだろう、不請不請にそれを受け入れ、どうにか受付をすませた。今朝、近所のクリニックに行った際のひとコマである。

振り付きで何度もくり返される「きゅっ」に、ちょっとおかしくなったのだけど、考えてみれば心身の不調とはそもそも、言語化しづらいものである。たとえば頭痛の形容に「ハンマーで殴られたような痛み」ということばがあるけれど、実際にハンマーで殴られた経験を持つ人は少なかろう。あるいは「ズキズキする痛み」と「キリキリする痛み」、「じくじくする痛み」などとぼくらは口にするけれど、ぼくにとっての「ズキズキ」が他者にとっての「ズキズキ」と同じものなのか、確認する術はない。ぼくが「ズキズキ」だと思っている種類の痛みを、ほかの人は「ガンガン」と理解しているのかもしれない。いや、なんだか現象学めいた議論に聞こえるかもしれないが、そんな高尚なものではなく、オノマトペとはきわめて感覚的に共有されるしかないことばであって、けっきょくは自分の主観だけを頼りとすることばなのだ。なのでときおり「きゅっ」的なディスコミュニケーションが生じてしまうのである。


そうだ。急に思い出したことがある。いま通っている病院、もう15年くらいのかかりつけなのだけど、それこそ15年くらい前、主治医の先生と年末年始はどう過ごすか、という話になった。

先生 「年末年始、なにかご予定は?」
古賀 「実家に帰省するくらいですかねー」
先生 「ご実家はどこ?」
古賀 「福岡です」
先生 「飛行機で?」
古賀 「はい。この時期、高いんですよねー。早めに予約しなきゃ」
先生 「いやいや、普通に買っちゃダメですよ、飛行機」
古賀 「え?」
先生 「金券ショップに株主優待券が売ってるでしょ。あれ買わないと」
古賀 「へえー」(ほんとに知らなかった)
先生 「そうですよ。年末年始の飛行機なんて、僕でも高いんですから


……僕でも高い!?

高給取りとして名高い開業医である私であっても高額に感じる年末年始の飛行機代、いわんや平日の昼間っからジーンズとスニーカーでここにやってきているフリーター然たる風貌のあなたにとって、高すぎる買いものに決まってるでしょう。そんな馬鹿な買いものをしているからあなたはいつまでも立身出世がかなわないのですよ、古賀さん!?


以来ぼくは、なにがあっても金券ショップで航空券を買い求めることはしまい、と決めたのだった。正規料金で、堂々と飛行機に乗る男になると決めたのだった。人はなんというか、つまらないひと言を憶えているものである。