見出し画像

からだの重さ、こころの軽さ。

十年くらい前、四十肩を発症した。

まさに四十歳を過ぎたあたりでの出来事。右の肩だった。たしか当時のnoteにも書いたと思う。そしてこれは五十肩と言うのだろうか。今度は左の肩が似たような痛みを訴えるようになってきた。あのころみたいに手を動かすこともできない、シャツに袖を通すこともできない、みたいな激痛ではない。腕を上に上げたり、後ろにまわしたりすると痛みが走るだけだ。何年か前の年末には膝を痛めたこともあったし、なるほど年相応の身体になっているのだなあ、と思う。

加齢については吉本隆明さんがいろいろと「こうなるんだよ」の話を残してくださっていて、なるほどそうなるのか、と参考にしている。たとえば、

年を取るということに対して、誤解してきたことに気づきました。七〇歳くらいになるまで誤解していたと思います。老いというのは、なだらかな変化だと思っていたのです。手足を動かすのがだんだん億劫になっていって、そのうち自由に動かせなくなるとか、そういう感じだと思っていた。しかし、そうではなくて、あることを契機にして、がたりと落ちていくのです。実際にそうなってみて、はじめてわかりました。ちょっと寝込んで、起きあがるとふらふらする。四、五日もすれば元に戻るだろうと思っていたら、その「元に戻る」という感覚がわからなくなってしまっているのです。

『ひきこもれ』吉本隆明

この太字にした最後の一文、「四、五日もすれば元に戻るだろうと思っていたら、その『元に戻る』という感覚がわからなくなってしまっているのです」というお話はとても印象的で、いまでも「そうなるんだな」と思い返すことが多い。

というのも、興味のない人はごめんなさい。

1980年代の中盤から後半くらい、ぼくはアントニオ猪木さんの試合を観ていていつも思っていた。「猪木も半年くらい休養を取って、膝だの糖尿病だのをぜんぶ治してから試合に出ればいいのに。そうすれば、いまでも前田や長州に負けないはずなのに」と。

しかしながら怪我や病気は休んだからといって完治するものではなく、とりわけ加齢については休めば休むほど(時が流れれば流れるほど)進んでいく類いのものだ。まったくあれは「休めば元気になる」のティーンエイジャー思考そのまんまの願望だったんだなあ、と思う。


でもさあ、ぼくは三十歳の自分と、四十歳の自分と、左肩が上がらないとか言ってる五十一歳の自分とを並べて「どれを選ぶ?」と言われたら、たぶんいまの自分を選ぶんですよねえ。三十歳には三十歳のたのしさはあるけど、三十歳には三十歳の不自由もあるわけで、身体のほうはともかく、気持ちや仕事から言えばいまの自分がいちばん自由だよなあ、と。身体が重たくなってきたぶん、精神が軽くなっている印象があるんです。

まあ、それについても「ほんとうの老人ってのはそういうもんじゃないよ」と吉本隆明さんは語ってくれているんですけどね。

普段はあまり考えないようにしていたとしても、ある軌道の中に入ってしまったら、憂鬱で憂鬱でしょうがないというのが老人です。その軌道に入らないためにはどうしたらいいかということが、老人にとって一番大事な問題なのだと思っています。

『ひきこもれ』吉本隆明