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その記憶が消えてしまったとしても。

ライターはいつも、ICレコーダーを持ち歩いている。

いや、そうじゃないライターも多いと思うけれど、ぼくは持ち歩いている。それにいまじゃ、スマホがレコーダーになる。なので、ライターにかぎらずみんなが持ち歩いていると言ってかまわないだろう。

だれかとしゃべっていて、おもしろい話に差しかかったとき。たとえば、ただの打ち合わせがめちゃくちゃおもしろい話に突入していったとき、ぼくはしばしば(断ったうえで)レコーダーを回していた。それを原稿にするわけでもないし、ほとんど聞き返すことさえしないのに、回していた。

「録音している」という事実が、あるいは「録音ボタンを押した」という事実が、自分の記憶になにかのスイッチを入れてくれるからだ。この話を憶えておこう、この瞬間を忘れないでおこう、というスイッチが。


昨年の前橋ブックフェスで、高校生からこんな質問を受けた。

「たとえば3日後に地球が滅亡するとします。そして将来、宇宙人が地球探索にやってきたとした場合、どんな文章が残っていてほしいですか?」

糸井重里さんはこれに「なんにも残らなくていいかな」と答えた。

残らなくても、それは「あった」んだよ。それが「あった」という事実は、ぜったいに消えないんだよ。残そうなんて、しなくていい。だって、それはほんとうに「あった」んだから。ぼくも、あなたも、それが「あった」ことを知っているんだから。だから、なんにも残らなくても、ぼくは平気です。

そんなふうに、糸井さんは答えた。


音声を残すこと。ことばに書いて残すこと。写真に撮って残すこと。

スマートフォンはいま、思い出を記録する装置として、その役割をおおきくしている。スマートフォンがなくなったり壊れたりしたら、思い出までもが消えてしまうような気持ちに、ぼくらはなる。

でもね。メールやLINEが消えて、写真やビデオが消えて、ソーシャルメディアのぜんぶが消えてしまったとしても、それは「あった」んだ。自分の大事なあの人は「いた」のだし、それは「あった」のだ。

たのしかったきのうの夜を思い出しながら、そんなことを考えた。そのうち消えてしまうだろう記憶に、気持ちよく手を振りながら。