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仕事があるということ。

仕事がある、ってのはとても大事なことだ。

この場合の仕事とは、食いぶちとしての仕事ではなくもっと広範な意味においての「やること」である。今日、やることがある。今日、やらなきゃいけないことがある。それなりの力を注いでやらねばならぬことがある。つまりは「仕事」がある。オフィスビルでのデスクワークかもしれないし、部屋のお掃除かもしれないし、庭の草むしりかもしれない。いずれにせよ今日、やるべきことがある。

ふつうに考えると面倒だったり苦痛だったりするこの「仕事」も、それに注力しているあいだは余計な情報に触れず、余計なことを考えず、結果として余計な真似をしでかさないというメリットがある。逆にいうと人は、喫緊のやるべきことを見失ったときにこそ、浅略をめぐらせて余計な真似をしでかすのかもしれない。

2ヵ月前に突如としてオフィス移転を思い立ち、そこからさまざまなる手続きを経て本日どうにかひと段落がつくまでのあいだ、ぼくにはずっと「やること」があった。本業たるライターの仕事とは別の、やることが目白押しだった。公私ともどもにさまざまのあった2ヵ月だったけれども、とくにこの一週間は社会的にもおおきな出来事のあったときだったけれども、とにかく目の前の「やること」「やらなきゃならぬこと」がノイズを最小限に遮断してくれた実感がある。


いまから25年以上前、フリーランスになりたてのころのぼくは、仕事と呼べるものがなにもなかった。ライターとしての仕事がなかったのはもちろん、極小ワンルームでの赤貧ひとり暮らしでは、やることなんてあろうはずもない。新刊を買うお金もなく、会社員時代に買い込んでいた文庫本を何度となく再読し、あとはひたすら思索にふけっていた。けれどもそういう状況下での思索とは、ほとんど妄想と紙一重のもので、自分を認めてくれない(というか自分の存在にさえ気づいてくれない)社会を恨むような気持ちも、ゼロではなかったと振り返る。

仕事は大事だ。食いぶちとしての仕事を得るのは今日明日にできることではないにしても、なんらかの「やること」をつくるのだったら、誰にだってできる。最近調子がよくないな、こころがくさくさしてるな、と思ったらなんでもいいので「やること」をつくっていこう。仕事に自分を預けてみよう。それで吹き去る季節風も、あると思うのだ。