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丁寧であること

先日、ある編集者さんからメールをいただきました。一度ご挨拶をしたことがある程度の、実質的にははじめましてな感じの方からのメールです。返信すると、CC に入っていた先方の部下の方からも返信があり、いやあすごいな、とほとほと感心しました。お二人とも、とっても気持ちのよいメールを書かれきたのです。

美文というのとも違う、文才というのとも違う、誠実さと丁寧さ、そして読み手を思いやる気持ちがしっかりと伝わってくる、気持ちのよいメール。そういや最近、こういうのサボってるなあ、と思わされました。

たとえば、ぼくもよくやる「お世話になっております」のひと言からはじまり、要件プラス「よろしくお願いいたします」で終了するメール。用件を伝えるという意味ではこれで十分なんだろうし、なんなら冒頭の「お世話になっております」すら省いてかまわないんだけど、そこで省略しているのは「書く時間」だけじゃなくって、「考える時間」でもあるんだよなあ、と思うわけです。

丁寧なメールが書けるひとは、きっと丁寧にものごとを考えることができる。ここでの「丁寧」とは、尊敬語や謙譲語を散りばめた、言語明瞭&意味不明瞭な書き方のことではありません。誰に、なにを、なぜ、どのように伝えるか、をしっかりと考えぬいた書き方のことです。ひとつのメールを丁寧に書いていたら、おのずと丁寧に考える時間ができていく。それを無駄な時間、ショートカットすべき時間と考えるのか、自分を育んでいくためのたいせつな時間と考えるのか。

しかも丁寧であることって、「いつも」そうであるからこそ、丁寧と呼べるんですよね。口説き落としたい「あのひと」に向けて書くときだけ真剣になるのは「集中」であって、丁寧とはいわない。丁寧とは、態度のことであり、態度とは「いつもそうであるか」が問われることなんです。

処理能力の高いひとであるよりも、丁寧なひとでありたい、です。