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こんなことを考えながら書いている。

ああ、どっちの話を書こうかな。

前提としてきょうは、あまり時間がない。それもあって今日は、いま書き進めている「ライターの教科書」についての、自分なりに定めた「書いていくうえでのルール」を備忘を兼ねてメモしておこうかと思っていた。けれども昨日、ほぼ日の学校・万葉集講座(永田和宏先生の回)で「歌仙」というものに触れて、がんがんばんばん、わんこそばのように歌を詠んで、「ああ、おれは自分のことを、詩を書くことのできない人間だと思っていたけれど、歌を詠むことだったらできるのかもしれないな、もしかしてそれは日本人の多くがそうなのかもしれないな、だとしたら詩と歌の違いってなんなんだろう」みたいなことを思い、その考えを深めていきたい気持ちもある。

と、ここまで書いてみて、後者の「詩と歌」を考えるには時間も知識もなさ過ぎることに気づき、予定どおり「書いていくうえでのルール」をメモすることに決めた。いま、決めた。

この本をのびのび書いていくうえで、ぼくが自分に課すことにしたルール。それは次の3つである。


■ 自分にできていないことは書かない
実際にそんな安っぽい項目があるわけじゃないけれど、たとえばこの本のなかに「読みやすい文章を書く、10の秘訣」みたいな話があったとする。ある程度の知識や経験をもっている著者なら、そこでいかにも役立ちそうな秘訣を10個、すらすらと挙げることができる。けれども自分が文章を書くとき、いつもその10個を意識しているか、クリアできているかといえば、必ずしもそういうわけじゃない。10のうち、せいぜい7つ、下手をしたら半分も守れていなかったりする。知識として知っていること、またその場でなんとなく思いついたそれっぽいことと、「自分が実際にできていること」のあいだには、かなりの隔たりがあるのだ。参考文献として読んだ本のなかに見つけた「これはまったくそのとおりだなあ」な話にしても、まだ自分の血肉になっているわけではなく、それをそのまま流用するように書くことはできない。なので今回、「自分にできていないことは書かない」。逆にいうと、「自分にできていること」だけを書くわけで、もしもそれで一冊の本にならないとしたら、ぼくがそれまでの人間だということだ。

■ 書いたことに縛られない
人間はなんだかんだと矛盾の多い生きもので、よくもわるくも朝令暮改を常として生きている。それによっておもしろいほうに転ぶのなら、いくらでも朝令暮改をしてしまおう。前言撤回してやろう。書いたことに縛られることなく、きのうの自分に縛られることなく、もっともっとおもしろいほうへ転がっていこう。矛盾を正すのは、書き終えてからでかまわない。

■ 進化論にとらわれない
これは近代特有の考えかたじゃないかと思うのだけど、ぼくらは心のどこかで「前進すること」と「向上すること」をイコールであるかのように勘違いしている。人も社会も(放っておいても)前に進むのは間違いないのだけれども、それがすべて向上につながっているかどうかは、かなりあやしいものなのだ。ぼくは過去に『20歳の自分に受けさせたい文章講義』という本を書いていて、ありがたいことにきのうも21刷目の重版が決まったところなのだけど、今回の本を書きはじめるにあたって、当初は「あの『〜文章講義』をぜんぶひっくり返すような、あの本が用もなさなくなるような教科書をつくろう」と意気込んでいた。しかしそれは誤った進化論に基づく発想で、あの本にはあの本にしかない価値があり、今回の本でも今回の本にしかない価値をめざせばいいという、それだけの話なのだ。進化論やアップデート主義に身をおくと、大事なところで足もとをすくわれそうな予感がしている。見つめる先に置くべきは、むしろ古典だ。


という、それぞれ相反するところを含んだような3つのルールを胸に、いま「ライターの教科書」を書き進めている。

ちなみに本のタイトルは「ライターの教科書」ではありません。あたらしいタイトルが浮かび、たぶんその方向でまとまるでしょう。