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わたしはトラである、と考える。

ああいう特集は、いまでもあるのだろうか。

子どものころに読んだ児童雑誌に『トラとライオン、どっちが強い?』みたいな特集ページがあった。ライオンといえば、百獣の王である。しかしながらトラが簡単に負けるとは思えない。ライオンが君臨する「百獣」ランドのなかに、トラは含まれていないのかもしれない。特集ページでは、それぞれの体長、足の速さ、ジャンプ力、主食としている動物、その他習性が事細かに記されていた。トラのほうがジャンプ力に優れているらしく、ガオーッと獲物に飛びかかっているイラストを、よく憶えている。子どものぼくはなんとなく、トラに勝ってほしいと思っていた。

しかし、である。そもそも、である。

トラは密林に住んでいる。アジアの密林に住んでいる。そしてライオンが住んでいるのはサバンナだ。アフリカの乾燥しきったサバンナだ。つまり動物園やサーカスで人間が引き合わせないかぎり、両者が出会う可能性はない。また、仮に出会ったとしてもわざわざバトルする理由が見当たらない。縄張りを争うとか、繁殖期にメスを争うとかの事態にはならないはずだ。『トラとライオン、どっちが強い?』の答えは、どっちも強い、である。

いわゆる異種格闘技戦というのも、基本的には『トラとライオン、どっちが強い?』と同じ種類の愚問である。ボクサーも、レスラーも、柔道家も、空手家も、住んでる場所や食べてるごはんが違うのだ。わざわざ戦わせる必要はないし、ほんとうは「みんな強い」でおしまいなのである。


それでも人は、トラとライオンの強さを比べたがるし、異種格闘技戦に胸を躍らせたりする。野球とサッカーを比べて語る人だって、いまだにいる。

しばしば人生相談で、「他人と自分を比べるな」というアドバイスを聞く。けれど、それは実践のむずかしいアドバイスだと思う。比べるな、はほとんど「見るな」と同義だ。そして周囲をまったく見ないで生きるのは、それはそれで不都合も多いというか、よくないことだろうと思うからだ。


じゃあいっそ、自分をトラだと思ったら、どうだろうか。

わたしはトラである。そしてなんだか百獣の王とか言ってるあいつはライオンである。わたしは密林に生きていて、あいつはサバンナに生きている。あいつがどんな人生を生きようと、わたしの知ったことではない。もちろんわたしの人生もまた、あいつの知ったことではない。住んでいる場所が違うのだし、食べているごはんが違うのだし、寝ぐらのありようも違うのだし、家族の構成だって違うのだ。あいつはたてがみを持っているけれど、わたしは縞模様を持っている。そういうものだ。

「比べないこと」と「多様性を認めること」と「自分の価値を認めること」は、分かちがたく結びついている。

そしてこれらを結ぶ紐は、知識であり、知性であると思うのだ。