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なさけない小市民の告白。

まったくゲスい男である。

先日ある人と話しているとき、やっぱりおれは小市民だなあ。大谷翔平選手の年俸に話題が及んだ。報道によると大谷選手、来季の年俸は43億円なのだそうだ。「正直、そんなにあっても困るよね」。ぼくは言った。

きっと大谷選手だってそれだけの金額がほしいと思ったわけではなく、代理人にすべてをまかせた結果、その数字に落ち着いたのだろう。そして代理人にしても、「1ドルでも多くせしめてやれ」みたいな気持ちで額をつりあげたというよりも、他の選手たちの年俸と比較したうえで、客観的な適正額を提示しつつ交渉したのだろう。さらにここで適正額を大幅に下回る金額で契約することは、悪しき前例として他の選手たちの契約交渉にもマイナスな影響を与えかねないため、「ほしい」「ほしくない」とは別のところでこの金額に落ち着いたのだろう。だって正直、10億も40億も変わらないもの。

それがぼくの見解だった。しかし相手の方は首を振る。10億と40億だったら間違いなく40億がほしいと言う。「そんなに使える?」。ぼくの質問にその人は「使える」と言う。具体的には、自分は日本にもこれこれこういう施設があればいいなと考えていて、本気でそれをつくろうと思うなら何十億あっても足りないのだと言う。

なるほどなあ、と思った。ぼくのあたまにあったのはせいぜい白亜の大豪邸を建てるくらいの使い途だったのだけど、その想像力はいかにも貧困だよなあ、と反省させられた。


若かったころのぼくも含め、「一生あそんで暮らせるお金」を求める人はたくさんいると思う。たくさんのお金を貯めて、いわゆるところのアーリーリタイアをして、リゾート地で優雅にのんびり暮らす、みたいな発想だ。けれどもそれは案外に貧しい発想で、ほんとうのぜいたくってのは「一生あそんで暮らさない人生」なのかもしれない。いつまでも現役で、いくつになってもあたらしい事業や学びに時間とお金を投じていって。

まあ、白亜の大豪邸やプライベートジェットとは違った「40億円の使い途」を考えられる自分でありたいですよね。考えてみます、自分のために。