見出し画像

なぜ犬の話は書きにくいのか。

犬の話は書きにくい。

たとえば、きょうの note に100人の方々がアクセスしてくださったとする。いや実際にはもっと大勢の方々がアクセスしてくださっているのだが、正確な平均閲覧数でもって話を進めると生々しくなるので、まあ100人の方々がこの画面を開いてくださったとする。冒頭からぼくが犬の話をはじめると、「ああ、犬の話か」「おれには関係ないや」「どうせまた溺愛トークだろ」という感じで、半数以上の方々が画面を閉じるのではないかと想像する。犬や猫の話は、写真で見るぶんには何枚あってもいいものだけれど、文章にして語られると、さほどおもしろくないのだ。とくに他人の犬は。

という意味でも犬の話は「書きにくい」のだが、それ以外の部分、文章表現的な意味においても書きにくいのである。

休日を犬と過ごすとよくわかるのだけれど、昼間の犬はたいそうよく寝る。自分のベッドで、人のソファで、気候によっては窓際やベランダで、あるいはそのへんの床で、ほんとうによく寝る。

かわいいなあ、と思うと同時に、いい身分だなあ、と思わなくもない。ぼくが懸命に働いている平日の昼間もたぶん彼は、ぐうぐう気持ちよく、惰眠をむさぼっているのだ。うらやましいぜ、こんちくしょう。と思う。

しかしながら本人的には惰眠をむさぼっている意識など皆無で、それだけの睡眠が必要な生きものなんだし、寝ているようでありながら常に耳をそばだてていて、不審者が侵入してきたり、おやつの袋が開けられたりすれば飛び起きるのである。

……さて。

いま、なにげなく犬についてぼくは「本人的には」と書いた。けれど当然、犬は人にあらず。犬を書いてて「本人的」ということばは不正確に思える。かといって人と犬を差し替えた「本犬的」なる表記を用いるのもへんだし、よほどにうまい擬犬化(つまり擬人化の犬バージョン)を発明しないかぎり、それはユーモアとしても成立しない。

もっとも、一般化したと思しき擬犬語もいくつかある。犬生(人生)なんてのはその代表格だし、老犬(老人)だってワニならば「高齢のワニ」などと表記されるところだろう。けれど、たとえば「他人」に該当する擬犬語はいまだ存在せず、そこは「よその犬」とか「ほかの犬」と書かないと通じないだろう。ほかにも恋人は「好きな犬」、友人は「おともだち」、知人は「顔見知りの犬」といった感じで、どんどんことばが延伸していく。

こころのなかでは完璧に家族であり、生物学的な壁を越えて日々を一緒に生きているのだけど、文字にして書こうとすると「ああ、お前は犬であり、おれは人間であり、ことばは人間の都合でつくられているんだなあ」と思わされるのである。