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計画してなかったことのできる空白。

今晩ぼくは、もつ鍋を食べる。

専門店に行くのではなく、自宅で食べる。昨夜のうちから準備万端、材料を買い揃えている。この数週間、ずっと食べたかった。トゥデイ・イズ・ザ・デイ。そりゃあビールも飲むだろう。とてもたのしみだ。

このようにして「今晩食べるもの」が決まっていると、一日ずっとたのしく過ごせるだけではなく、副次的なメリットも生まれる。

昼飯を選ぶのが楽なのだ。昼になにを食べようか迷いはじめた自分に、もうひとりの自分がささやく。「夜はもつ鍋だぞ」。そうすると「だったら和食はよしたほうがいいな」とか、「かといって重たい中華も避けるべきかな」とか、「さらっとしたパスタにするかな」とか、選ぶにあたっての軸が生まれる。いま、この昼飯で大満足しなくてもいい。大満足は夜、すればいいのだ。計画性、というやつである。

かといって、毎晩の献立がかっちり決まっていると、それはそれで不自由を感じるだろう。人には「無性に食べたくなる」という習性があり、無性に食べたくなったものほどおいしく感じるよう、ぼくらの舌と胃はできているのだから。なにかを無性に食べたくなったときのため、献立スケジュールにはある程度の空白を確保しておくべきだろう。


noteには、マガジン機能なるものがある。複数人で運営しているやつも多いんだろうけど、基本的には「ある人が、あるテーマに沿って、定期的に書いていく記事」がマガジンとしてまとめられている。たしかにテーマがあったほうが、書くにあたっての軸になるし、読む人も理解がしやすい。ぼくもいくつかの雑誌で、テーマありきの連載を持ったことがある。

けれどもぼくの場合、「無性に書きたい」が突発的に訪れるため、ワンテーマでなにかを連載していくのはむずかしいだろうなあ、そのうち苦痛になっていくだろうなあ、と思っている。もつ鍋の話を書きたくなったり、犬の話を書きたくなったり、仕事の話を書きたくなったり、そのときどきで無性なるなにかがやってくるのだ。

まあ「金曜日はカレーの日」みたいに、「金曜日は仕事の話を書く」くらいの献立だったら自分にもこなせるのかなあ。って、きょう書いたことにしたところで、仕事の話とも言えるし、夕食の話とも言えるし、献立に代表されるスケジューリングという概念に関する話とも言えるだろうし、なにを書いているのか、自分でもよくわかんないんですよね。それが日記的なブログのおもしろさ、なんでしょうけど。