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平成がはじまった日のわたし。

小渕恵三さんが掲げた「平成」の文字。

あれを見たときぼくは、いったいなにを思っただろう。たしか中学3年生の冬だった。空気としての世間は、まだまだバブルの絶頂期。明治生まれの人も、大正生まれの人も、普通のこととしてたくさんいた。六十数年しか歴史のない昭和という時代に生まれた人たちは、たとえ昭和ひとケタ生まれであっても、「まだまだおじいさん・おばあさんとはいえない人たち」だった。

平成の文字を見たときぼくは「なんだかスカスカだな」と思った。昭和の文字にくらべて、いかにも画数が少ない。バランスよくこれを書くのはむずかしいだろうな、と思った。ニュース番組では平成の字義について、あれこれと解説がなされていた。司馬遷の『史記』に「内平外成」なる記述があり、そこから採ったのだと説明されていた。日本の元号を決めるのに中国の歴史書をあたるのか、と軽くおどろいた。おそらくそれはこじつけが半分で、実際にはあらかじめ「平」の文字を決め打ちして、それに見合うことばを古書に求めていったのだろうと思った。昭和の「和」に続いて、なるべく穏当な「平」の字を使いたかったのだろうと。ぼくの記憶する範囲では、当時のメディアはいまよりもずっと保守的・ナショナリズム的な言説へのアレルギーがつよく、年がら年中「平和」を唱えていないといけない空気にあふれていた。平成の文字は、そういう人たちへの配慮に満ちた、どこか欺瞞めいたものを感じてしまうくらいに陳腐にして完璧な、文句のつけようがない元号に映った。


と、新元号に関するニュースを見て、当時のことを思い出した。中学生にしては(中学生なりに)いろいろ考えていたんだなあと思う反面、だって十五歳だもの、それくらいは考えるよ、とも思う。そして当時は、自分が「平成」ということばについてどう思ったのか、誰かと語ったり、どこかに書きとめたり、ましてやそれを発表したりする機会はまったくなかったんだなあ、と。

ことしの後半には発表されるといわれる新元号。またたくさんのことを感じるのだろう。そして当時にくらべて余計な知恵がついてしまった自分としては、できればあのころと同じように、なるべく静かにそのことばを受け入れたいと思う。

……ここ(note)に、そのことについて書くのかなあ。あたらしい元号、おれはこう思う、みたいな話を書くのかなあ。なんにも書かない・思わないはうそになるだろうけど、できれば余計なことは書きたくないなあ、と思うのです。