こんなふうに、ぼくは読んだ。
これもまたきっと、いま書いている本と関係する話だ。
一週間ほど前からぼくは、緊急事態宣言を前にして、「もしも自分が総理のスピーチライターだったなら、その宣言文をどんなふうに書くのだろう?」という、ありえない妄想をふくらませていた。書いている人、さぞかし大変だろうなあ、と思いながら「自分だったらどうするか」を考えていた。
そして一昨日、緊急事態宣言が発出された。「なるほど、そういうロジックで攻めるのか」。おおいに驚き、感心した。相当に練られた原稿だと思う。とはいえ同時に、「おれだったら、こうするけどなあ」も多々あった。「書いてみたかったなあ」と、思ったりもした。会見の全文は、首相官邸ホームページに掲載されている。
この原稿(原稿用紙15枚程度)を一冊の本として考えるなら、おそらく次のような構成になる。
1章 医療崩壊の阻止に向けて 〜緊急事態宣言〜
2章 いま求められる行動変容
3章 この危機を乗り越える経済支援策
4章 恐れるべきは、恐れそのもの
5章 見えはじめた希望
ぼくがいちばん感心したのは第1章、緊急事態宣言の発出に至るまでの流れである。冒頭は、医療従事者への感謝にあてられた。当然のことだし、諸外国の首脳たちもまた、国民に呼びかけるメッセージの冒頭では医療従事者への感謝を述べている。まっとうなはじまりだ。続いてスピーチでは、現在政府が医療機関や医療従事者に対してどのような支援をおこなっているか、またこれからどんな支援をおこなう用意があるのかについて、述べられる。前段の内容から考えても、自然な流れだ。
そのうえで、「ただ、こうした努力を重ねても、東京や大阪など、都市部を中心に感染者が急増しており、病床数は明らかに限界に近づいています。医療従事者の皆さんの肉体的、精神的な負担も大きくなっており、医療現場は正に危機的な状況です。」と展開する。ここは非常におおきなポイントだ。
改正新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく「緊急事態宣言」の発出については、おおきく以下のふたつの要件が定められている。
・国民の生命及び健康に著しく重大な被害を与えるおそれがある
・全国的かつ急速な蔓延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼすおそれがある
この「全国的」ということばを額面どおりに受けとれば、たとえ東京でどれだけの被害が発生しても、それが「全国的」でないかぎり、緊急事態宣言の要件を満たしえない。また、欧米諸国と比較した場合、日本の感染状況はいまだ「急速な蔓延」と呼べないのかもしれない。
そこでカメラは感染者から、医療機関・医療従事者へと向けられる。
医療従事者がどれだけ困難な状況に置かれているのかを語り、行政による精いっぱいの努力を語り、それでもなお医療提供体制が危機に追い込まれていると訴える。そして、このまま医療崩壊を招いてしまったら「国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼすおそれがある」とする。緊急事態宣言を発出する法的根拠は、このロジックで整うわけだ。
冒頭から医療従事者への感謝や労いのことばを述べ、政府のおこなってきた支援策に言及してきた(もうひとつの)理由はここにある。ひとつのスピーチとして、かなり洗練された構成だ。
そしてまた、このロジックに従うかぎり、今回の緊急事態宣言が目標としているのは「医療崩壊の阻止」であり、そのラインを踏み越えてはいけないのだと理解できる。スピーチのなかで述べられる「医療への負荷を抑えるために最も重要なことは、感染者の数を拡大させないことです。そして、そのためには何よりも国民の皆様の行動変容、つまり、行動を変えることが大切です。」ということばは、そのあらわれだ。不要不急の外出を控えるよう要請する理由は「感染拡大の阻止」ではなく、「医療への負荷を抑えること」なのだ。感染拡大の阻止は、その手段に過ぎない。
さらに緊急事態宣言の発出にあたり、その期間がゴールデンウィーク明けまでの1か月だと語られる。しかもそれが「とりあえず1か月くらい」ではなく、専門家たちによる疫学的試算に基づくものだと明かされる。前提条件があるとはいえ、「2週間でピークアウトさせ、減少に転じさせることができる」ということばの力は強い。
また、ピークアウトの前提条件となる「接触機会を8割削減」については、厚労省クラスター対策班の西浦博先生による、こちらの動画がわかりやすいと思う。
続く第2章では「いま求められる行動変容」について、オフィス編、日常生活編、余暇・娯楽編、といった順番で語られていく。
ヨーロッパ型の都市封鎖ではないため、「ステイホーム」的なわかりやすい標語を掲げられず、ちょっと冗長な説明になってしまうのは、書き手として歯がゆいところだっただろうと推察する。
で、3章が経済対策。ここは政策それ自体よりも、「本当に苦しい中でも、今、歯を食いしばって頑張っておられる皆さん」みたいな情緒的表現の嫌らしさが気になった。
それで4章が、パニックを防ぐためのメッセージだ。少し引用しよう。
今回の緊急事態宣言は、海外で見られるような都市封鎖、ロックダウンを行うものでは全くありません。そのことは明確に申し上げます。今後も電車やバスなどの公共交通機関は運行されます。道路を封鎖することなど決してありませんし、そうした必要も全くないというのが専門家の皆さんの意見です。海外では、都市封鎖に当たり、多くの人が都市を抜け出し、大混乱と感染の拡大につながったところもあります。今、私たちが最も恐れるべきは、恐怖それ自体です。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で広がったデマによって、トイレットペーパーが店頭で品薄となったことは皆さんの記憶に新しいところだと思います。ウイルスという見えない敵に大きな不安を抱くのは、私も皆さんと同じです。そうしたとき、SNSは本来、人と人の絆(きずな)を深め、社会の連帯を生み出すツールであり、社会不安を軽減する大きな力を持っていると信じます。しかし、ただ恐怖に駆られ、拡散された誤った情報に基づいてパニックを起こしてしまう。そうなると、ウイルスそれ自体のリスクを超える甚大な被害を、私たちの経済、社会、そして生活にもたらしかねません。
フランクリン・ルーズベルトからの引用だと話題になった「今、私たちが最も恐れるべきは、恐怖それ自体です」という一節。今回のスピーチのなかで唯一、詩的な響きを持つ、執筆者の「これによって記憶されたい」の思いが伝わることばだ。
そしてここまで一貫して「私たち」としてきた主語を、ひとつだけ「私」に改めた箇所。つまり「ウイルスという見えない敵に大きな不安を抱くのは、私も皆さんと同じです。」の一文。そのうえでなされる「人と人との絆を深め、社会の連帯を生み出すツール」という SNS の定義づけ。おそらくここは、感情面でのクライマックスと言える箇所だろう(ここで語られた「絆」のことばは、ラストへの伏線ともなっている)。
それで最終章が「見えはじめた希望」だ。この困難のなか、自発的に立ち上がってくれた人や企業。社会インフラを守るため、粛々と業務にあたる市井の人びと。そうした一人ひとりが希望なのだと、スピーチでは述べられる。
残念だったのは、ラストを東日本大震災と結びつけた点だ。震災と新型コロナウイルスを同列の「おおきな困難」として扱っていると、事の本質は見えてこない。むしろ両者の違いを明確にし、「新型コロナならではの困難さ」を言語化することによってようやく、ほんとうの行動変容を促すことができるのではないか。なんとなくきれいにまとめられた気がして、やや拍子抜けするラストだった。
とはいえ、医療従事者への感謝からはじまり、「医療崩壊の阻止」を最大の目的とした緊急事態宣言発出までの流れ。さらには1か月という宣言期間の論拠と、掲げられた具体的な目標設定(対人接触機会の8割削減)など、とくに前半部分についてはかなり完成された構成だったと思う。
そしてまた、目的を「医療崩壊の阻止」としたのは出口戦略としても非常に優れている。緊急事態宣言が出される前、ぼくはずっと「出すのは簡単でも終了を宣言するのはむずかしいだろうなあ」と思っていた。仮に来月、緊急事態宣言の終了を宣言したとして、そこから感染者がふたたび増えていったとしたら、大変な騒ぎになる。
でも、緊急事態宣言の目的が「医療崩壊の阻止」であれば、別ロジックが成り立つ。仮に宣言期間の終了後に感染者が増えたとしても、医療提供体制さえ十全であれば緊急事態にはあたらない、というロジックだ。だから正直、ぼくはゴールデンウィーク明けの宣言解除、ふつうにあり得ると思っている。
さまざまな法律文を前にして、かしこい人たちが知恵と知見を総動員しながらつくっていったのだろうなあ、と感心する。
ただし、会見全体が冗長だった点は否めない。おそらくぼくだったら、2章と4章を入れ換えて、こんな展開にしただろう。
1章 医療崩壊の阻止に向けて 〜緊急事態宣言〜
2章 恐れるべきは、恐れそのもの
3章 いま求められる行動変容
4章 この危機を乗り越える経済支援策
5章 見えはじめた希望
テレビは基本、「チャンネルを変えられたら終わり」だ。そしてあのスピーチは、じっくり読まれる原稿ではなく、一過的な「テレビ演説」である。いつチャンネルが変えられてもいいよう、クライマックスは前半に持ってきたほうがいい。
とかなんとかね。ぼくは会見映像を「読み」ながら、いろいろ思ったわけですよ。政権擁護とか政権批判とかの文脈じゃなく、「1億人に向けた原稿」を書く人のことを考えながら。