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わたしが企画をつくるとき。

きのう、本の企画が浮かんだ。

自著ではない、ひさしぶりに「あの人に書いてもらう」式の、あるいは「あの人と一緒に書く」式の、本の企画だ。

来年の前半からは一冊、自著を書く予定が入っているので、その企画が動き出すのは、早くても来年後半になる。そして、ぼくの思いつく企画はどうも「本気でやるとなったらマジで大変だぞ、それ」という曼荼羅タイプの本が多く、尻込みしないでもない。けれどもやはり「実現したらおもしろいだろうなあ」という企画があたまにある状態は、うれしいものだ。ひとりの読者として、何千円払ってでも読みたいと思うもの。


企画の立て方について書こう。ぼくは商業出版の世界に生きている人間で、本の売上げからの印税収入によって、住むところを得て、三度の飯を食い、春夏秋冬の服を買って、犬と散歩するなどしている。そのためぼくの企画はすべて、「それは商品(コンテンツ)として成立しているのか?」の関門を突破して、立案される。「おれがおもしろければ、あとはどうでもいい」とはならない。

しかし「商品として成立する」ように立てられた企画は、無難だったり凡庸だったりして、あまりおもしろいものではない。毒にも薬にもならない模範回答が、あたまのなかの企画書に記されている状態だ。

そこで「なーんか足りないんだよなあ」のぐるぐるを、それなりの時間めぐらせることになる。最初に固めた「商品」としてのベースを守りながら、そこに足りない軸を探す。無難な企画とは、外側の「枠」がしっかりしているだけで、全体を貫く「軸」が存在していないのだ。

たとえば『嫌われる勇気』という本においては、「哲人と青年の対話篇」がその軸になった。『20歳の自分に受けさせたい文章講義』という本では、「疑似講義録」を軸とした。

きのう会社からの帰り道に思いついたのは、そういう「軸」のひとつである。「こうすれば思いつきますよ」みたいなアドバイスはできないけれど、ずっとずっと、何百回も「なーんか足りないんだよなー」の呪文を唱えること。ぼくの場合はその果てにいつか、足りない軸を見つけている気がする。

いちばん大切なのは、「なんか足りない」を自覚することなのだけれど。