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技術よりもたいせつなこと。

ただただ、おそろしい連載だった。

ほぼ日刊イトイ新聞で、本日最終回を迎えた「阿久悠さんのこと。」である。いきものがかりの水野良樹さんが聞き手となり、糸井重里さんが昭和の大作詞家・阿久悠さんについて語っていく、ほぼ日のなかでは少しめずらしいタイプのコンテンツだ。連載中、何度もツイッターに感想を書こうとしたのだけど、とても短いことばでそれをおさめる自信がなく、連載終了までじっと待ち、いまこうして思うところをまとめようとしている。

おそらく、役割を自覚されてのことだと思う。糸井さんの阿久悠さんに向ける目は、意外なほど冷たく、フラットで、ときに厳しい。阿久悠という作詞家の「すごさ」や「よさ」を語る人はたくさんいるだろうから、じぶんはじぶんの目で見て考えた、ほんとうのことを丁寧に伝えよう、とされた結果だろう。ひと言でいうとこの連載では、「なぜ、阿久悠さんほどの技術と戦略と才覚をもった人が、大御所となったあと『時代』に取り残されていったのか」について語られている。

もし、糸井さんのことばが阿久悠さん個人に向けられたものだったなら、読んでいてここまで怖いと感じることはなかったと思う。しかし、ここで糸井さんが語っているのは「技術」や「理屈」に手足を縛られることのおそろしさであり、クリエイティブにおける「中高年の危機」なのだ。それがいまのぼくに、ぐさぐさと突き刺さりまくってしまったのだ。


加齢については30代のころから、さんざん考えてきた。

年を重ねるほど、野心は減じていくだろう。体力も低下するだろうし、その結果として集中力も衰えていくだろう。いくら筋トレやランニングなどに精を出したところで、肉体的な衰えはカバーできなくなり、いま(30代)のような書き方はできなくなるだろう。そうした衰えに抗うことができるとすれば、ただ技術を磨いていくこと、それだけだろう。

そんなふうに考え、技術についてはこの10年近く、人一倍考えてきたように思うし、そこにすがってきた自分がいる。技術的に未熟なものを受けつけられず、おかげで「(技術的にボロボロな)これがなぜウケているのか、さっぱりわからない」を感じる機会がどんどん増えていった。けっこうなシリアスさで「まずいぞ」と感じていた。

まさか阿久悠さんと自分を引き比べることはできないけれど、その「どうしても技術に目がいってしまう」という態度は、プロフェッショナルとして当然なことではありながら、それだけになってしまったらダメなんだよなあ。

技術は技術としてたいせつに磨きつつ、そこにとらわれ過ぎない目をどう養っていくのか。いまならまだ間に合うと思うので、これからのおおきな宿題として、考え続けていきたい。


阿久悠さんを知らない若い人はもちろん、技術に傾きすぎた40代以降の人にこそ読んでほしい、そんな連載でした。

ひとつだけリクエストがあるとすれば、紹介されているそれぞれの歌について、その制作年を一緒にクレジットしてもらえると比較や理解の助けになりやすかったかなあ。