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苦手に対するアクションは。

「苦手な食材などはございますか?」

レストランやお鮨屋さんで「おまかせ」的なコースを選んだときに問われることばである。幸いなことに、ぼくは苦手な食材がない。食物アレルギーもないし、積極的に嫌いな食材・料理もない。なので出された料理は、たいていおいしく食べることができる。それで得をしているところは、おおいにあると思う。

ところが、食から一歩離れるとぼくは、自分でもおどろくほどに「苦手」が多い。小説、映画、音楽、ファッション、自動車、その他もろもろ。およそ娯楽と名のつくものについて、そこそこの偏食家ぶりを発揮してしまう。

「これが好きな人は、これの、こういうところが好きなんだろうな」くらいを想像することはできる。その目で鑑賞して、「そういうよさ」を頭で整頓することはできる。しかしながら純粋にたのしんだり、味わったりはむずかしい。正直、ジャンルごと食わず嫌いしている娯楽もたくさんある。

10代くらいのころは、それらの苦手について、「攻撃」以外のアクションがとれなかった。つまり、自分がそのよさを理解できない人や作品について、わざわざ「○○はクソ」みたいな言い方をしていた。「わからない」と言えず、ましてや「知らない」とも言えず、漠然とした攻撃のことばで自分の身を守るしかできなかった。

それが大人になるにつれて、「自分はまったくいいと思わない」を前提としながらも、「かといって、これをたのしんでいる人がいることは否定したくない」と思えるようになった。聞かれてもいないのに余計な文句をつけて、その人らのたのしみを奪いたくないと。

結果、苦手に対するアクションが「邪魔をしない」になっていった。嫌いとか苦手とかは、そのまま保持していてもいい。ただ、邪魔をしない。もしも自分が邪魔になりそうであれば、さっと身を引く。そこから立ち去る。

若いころに自分をやさしく見守ってくれていた幾人かの大人たちも、こんな感じだったんだろうなあ、と思う。「それはおもしろい!」と積極的に賛成したり賛同していたわけではなく、ただ邪魔をしない。その盛り上がりに、水を差さない。それだけで発動できる自由って、たくさんあるんだよなあ。


最近のソーシャルメディアが疲れてしまうのは「邪魔」をしてくる人がたくさんいて、場合によっては自分までもが「邪魔」の誘惑に駆られるからじゃないだろうか。

みんな日常生活のなかじゃ、そんなに邪魔してないはずなんだけどねー。