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主観の太陽、客観のレフ板。

けっこうな苦行である。

最近、ここの note を書くのがほんとうにつらくなってきている。面倒くさいとか、書くのが嫌いだとか、書くことがないとか、そういう話ではない。ひと言でいって、われながら「おもしろくないこと書いてるなあ」と思うのだ。おもしろくない自信が、まんまんにあるのだ。そして「これはおもしろくない」とわかっていながら書き続ける毎日ってのは、なかなかの苦行なのである。

じゃあ、どうして「おもしろくない話」しかできないのか。

答えは決まりきっていて、すべては執筆中の本のせいである。いまはもう、執筆中の本のことしか考えていない。それ以外のもろもろはぜんぶが些事、もしくは面倒事としてラベリングされ、脳内の二等船室できわめて雑な扱いを受けている。結果、ここに書く話も考えを詰めきれていない雑なものになりがちで、書いてる端からもう「おもしろくないなあ」と思ってしまうことも多い。


これは意外と大切な話で、おもしろいものを書こうと思うなら、なによりもまず自分がおもしろがっていなくてはならない。自分がおどろいたり、自分が感心しまくったり、自分がゲラゲラ笑いながら書いていないと、おもしろいものにはならない。こころの醒めた人の書いたものは、やっぱりつまんないのだ。書かれた情報にどれだけの価値があったとしても。

いい原稿を書くにあたって、一定の客観性はもちろん必要なのだけど、それは「わたしを消すこと」とイコールではまったくない。主観という太陽光があるからこそ、客観というレフ板が生きてくる。主観のない暗闇のなかでいくらレフ板をかざしたところで、対象はなんら像を持ちえない。


で、いまのぼくは思考も感情もぜんぶが執筆中の本に持っていかれていて、ほとんど腑抜けのような状態で日々を生きているのです。原稿以外のところで発露する感情があるとすれば、喜怒哀楽にすら届かない「面倒くせえ」ばかりになっているのです。逆にいうと日常での腑抜け具合が極まれば極まるほど、原稿に集中できている証拠なのかもしれません。

ま、きょうは太陽とレフ板というたとえを思いついたので、書いてよかったと思うことにしよう。