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おれが誰かのことをそう思っているとき、おれもまた誰かからそう思われている。

お前が深淵を覗くとき、深淵もまたお前を覗いているのだ。

いろんなところで引用される、ニーチェさんのことばです。面倒くさい男の常として、若き日のぼくもやっぱりこのひとの本はたくさん読んできました。そのつど震えてみたり、震えたつもりになったり、それでまたどこかで引用してみたくなったり、面倒くさい男のもろもろをひと通り経験してきたように思います。


いまではもう彼の著作を読み返す機会も激減し、読んだときの鮮烈な「感じ」こそ克明におぼえているものの、どの作品でどんなことが語られたかについては、あんまりおぼえていない気がします。断片的なことばを、これまた断片的な記憶として、たまに思い返す程度です。

けれども最近、ああこれはまさしく「深淵のあれ」と同じことだよなあ、と思い至ったことがあります。


知人や友人、あるいはうっすらとファンだったひとの近況に触れて、なんとなくがっかりすることがありますよね。「ああ、なんだかつまんない方向に行ってるなあ」とか「おもしろくなくなっちゃったなあ」とか、「期待していたのに、もったいないなあ」とか。

いじわるな目で見ているというほどでもなく、冷たい目で見ているでもなく、ただ淡々と「つまんないひとになっちゃったなあ」とがっかりしている。数年単位でゆっくりそうなっていったひとたちもいれば、半年や一年という短い期間でそうなったように映るひともいる。

で、これはまあ、見ているこちらの、主観による評価なのでほんとうにダメになっているのかどうかはわかりえないし、さほど重要でもない。ただ、どうも最近「つまんなくなったひと」が増えているなあ、と思っていたんです。

それで思ったのは、変化しているのは「あのひと」や「このひと」ではなく、ほかならぬ「おれ」なんじゃないかということ。おれの道が、少しずつ離れていったから、ほかの道が「そうじゃない道」に映っているだけなんだということ。

つまり、おれが誰かのことをそう思っているとき、おれもまた誰かからそう思われているんだよなあ、ということ。つまんなくなったとか、よくない方向に進んでいるとか、もったいないなあとか、そんなこともね。


「あいつは間違っている、だから(それに反対している)おれは正しい」というロジックは、思いっきりお互いさまな屁理屈であって、ちっとも自分の正しさを裏づけてくれるものではありません。あいつが間違っているかどうかなんか関係なく、自分が進もうとしている道を、その先にある光景を、つまりは光の景色だけを見て、まっすぐに歩んでいきたいものです。

うん、この「おれが誰かのことをそう思っているとき、おれもまた誰かからそう思われている」は、忘れないようにしておこうと思ったのでした。