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「時間がほしい」の、その内容。

時間が足りないと思うようになったのは、働きはじめてからのことだ。

たとえば中学生や高校生の時代、ぼくはまじめな受験生ではなかった。受験勉強というものに(きわめていい加減にしか)取り組まず、結果として時間はたくさんあった。部活動にも励んでいたけれど、「時間がほしい」と切実に願ったのは全国大会の1カ月ほど前におおきな怪我をしたときくらいで、あとは日々の練習をこなしつつも、はやく卒業したい気持ちをどこかに抱えていた。

大学を卒業してメガネ屋さんで働きはじめたころも、時間とは「早く過ぎてほしいもの」でしかなかった。「あと3時間で店が閉まる」「あと1時間がんばれば終わりだ」みたいな感じで時計を眺め、夜8時の閉店を待ちわびていた。

そしてさほど曲がりくねってもいない、けれども紆余曲折と呼ぶべき過程を経てフリーランスのライターになったのち、一気に時間が足りなくなった。1日が48時間ほしい。あるいは自分が2人ほしい。できれば3人。まじめにそう願うようになった。やらなきゃいけない仕事が山盛りだったのである。

それで現在。

相も変わらず忙しくしている。時間がほしいと願っている。けれどもほしいのは「働く時間」や「原稿を書く時間」ではなく、本を読む時間だったり、映画を観る時間だったり、友だちと遊ぶ時間だったり、展覧会に出掛ける時間だったり、犬とたわむれる時間だったり、仕事以外のさまざまだ。そういうさまざまで自分を潤し、耕していかないと、本業のほうにもおおきな支障が出ることにようやく気づきはじめている。人間としての口座におさめられた元金の目減りを、ひしひしと感じるようになってきた。

若いうちに気づけばよかったなあ、と思う気持ちがある反面、それに気づけないのが若さだよなあ、とも思う。気づいていたならあんなに走れなかったものなあ、と。

いま書いている本が「とっても若い人」に向けたものでもあるせいか、自分のこれまでを振り返る場面が多いんですよねー。

いい本ができつつありますよ、たぶん。