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「ブイヨンからのおれい」に。

きのう、TOBICHI2 でブイちゃんに会ってきた。

最初はひとりで行こうかと思っていたのだけど、いろいろ考えてうちの犬(ぺだる)を連れていくことにした。会いたいのはきっと、ぺだるも同じだろうと思ったし、会わせておきたかったのだ。

前にも書いたかもしれないけれど、ぼくはブイヨンにちゃんと会ったことがなかった。何年も前に一度だけ、代々木公園近くを散歩する糸井さんとブイヨンをお見かけしたことがある。「わあ、糸井重里さんだ!」と同じくらいの強さで「わあ、ブイヨンだ!」とおどろいた。当然声をかけることもできず、ただブイヨンのちょこまかした歩みを眺め、裏道の端と端ですれ違った。

いまから3年前、ぼくは note にこんな話を書いている。

「なんでもほしいものを言ってごらん」と言われたら、たぶんぼくは「犬がほしい」と答えるだろうなあ、と。愛玩用のペットとして犬がほしいのではなく「犬のいる暮らし」がほしいなあ、と。犬と歩く朝の公園、犬と眺める景色、犬がくっつく足先の温度。お金でも豪邸でも高級外車でもなく、そういうものが、ぼくはほしいんだと。

そう考えるきっかけとなったのは、やっぱりブイヨンだ。ほぼ日のなかで、糸井さんがブイヨンとの「暮らし」を惜しげもなく見せてくださったからこそ、ぼくもその日常にあこがれを持つようになった。ブイヨンそのものというよりも「ブイヨンのいる暮らし」のうれしさに、うっとりした。

そしていまの自分だったら、こんな「暮らし」をつくれるんじゃないかと思った。犬を不幸にすることもなく、自分を責めることにもならず、最後までありがとうとありがとうの関係が築けるんじゃないかと思った。

迎えにいった犬は「ぺだる」と名づけられ、いまではぼくの暮らしに溶け込んでいる。うちにやってきてからまだ1年半くらいだけど、いまのぼくに彼のいない古賀家は考えられない。それはたぶん、ずっとそうだろう。


「ブイヨンからのおれい」展に並んだ写真を見ていると、まるでぼくとぺだるがこれから歩む道を見せてもらっているような、不思議な気持ちになった。

簡単には使えないはずの「愛」ということばが、おにぎりのようにぽんっと、「あたりまえのこと」としてすべての写真に置かれている。ありがとうね。ありがとうね。ほんとに、ありがとうね。一枚一枚の写真に、そのことばだけが漏れていく。

こういう場に不慣れなはずのぺだるも、ずっと「いいこ」にして、ぼくに抱かれていた。何人もの方から「ぺだるくんですか?」と声をかけられ、なでなでしてもらった。

ブイヨンがいてくれて、ドコノコという場があってくれて、ほんとうによかったなあ、と思う。



暮らそう。

もっと、暮らそう。

ちゃんと、暮らそう。

帰りにぺだるをぎゅーっとした。

ありがとう、ぺだる。ありがとう、ブイヨン。