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瑞々しい思い出。

瑞々しい、と書いて「みずみずしい」と読む。

恥を忍んで告白する。ライターの教科書を標榜する『取材・執筆・推敲』なんて本を出そうとしておきながら大学生のころ、ぼくはこの「瑞々しい」の読み方がわからなかった。「瑞々しい」は大抵、書評や音楽評で遭遇することばだった。「○○の瑞々しい感性によって紡ぎ出された本作は」とか、「○○の瑞々しいギターがかき鳴らされ、会場の空気は一変した」だとか、なんだかそんな感じの文のなかに「瑞々しい」は挿入されていた。

のちにライターになるなんて考えたこともなく、さほどの読書家でもないぼくは当時、辞書を引く習慣を持っていなかった。知らない漢字に遭遇したときには、なんとなく前後の文脈から意味を想像して読み進めていた。

「瑞」の字は、「端(たん/はた)」にとてもよく似ている。双子と言っても差し支えないほど、よく似ている。読み方の手がかりがあるとすれば、そこだけだ。けれども「瑞々しい」が「たんたんしい」や「はたはたしい」だとは、到底思えない。というか、そんな日本語はない。ニュアンス的にいえば「すがすがしい」あたりに近いはずのことばなのだけれども、すがすがしいは「清々しい」と書く。さすがにそれは知っている。……ああ、いったいこの「瑞々しい」は、なんと読むんだろう。どんなすてきな響きをもったことばなのだろう。使ってみたいよ、おれも「瑞々しい」を。


けっきょく大学の終わりごろ、「瑞々しい」は「みずみずしい」と読むのだと知った。「なるほど!」とのよろこびが3割、「なーんだ」のがっかりが7割だった。なんというか、そこに濁音が混ざるだけで台なしになってしまうくらい神聖な、キラキラとした、透明で、さらさらのことばだったのだ、ぼくのなかでの「瑞々しい」は。

ネット時代、そしてスマホ時代になったこの先はもう、あんなふうに「何度も出会う、ニュアンスだけは掴みつつも、読み方のわからない漢字」に悶々とすることもないだろう。

あの悶々は、とてもよかった。若々しく、まったく瑞々しい思い出だなあ、と思うのである。