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パクリや嘘から距離を置くべき、その理由。

文章というもののおもしろさについて書いてみたい。

きっかけは、最近いろんなところで目にするようになったパクリ問題まわりのカンカンガクガク、もしくはケンケンゴウゴウだ。なにかの作品を世に出すと、しばしばそれはパクリの対象となる。「ほんとうにオリジナルなものなど存在しない」といった達観的意見とは別のところで、そしてこちら側の自意識過剰とは別のところで、あからさまに剽窃されることは、しばしばある。ぼくのレベルでさえ、それはある。

具体的にいうと『嫌われる勇気』と『20歳の自分に受けさせたい文章講義』は、けっこう露骨で悪質な剽窃の被害に遭ってきた。

出典をなにも明示しないまま、たとえ話まで丸写しで『嫌われる勇気』独自の内容をパクった出版物は、もう何冊となく見てきた。そのうち悪質なものについては法的措置を検討したりもしたけれど、剽窃と翻案の違いを法的に証明することはなかなかにむずかしく、こちらの訴えが認められる可能性はそれほど高くない。そんなことに(お金や労力の)コストを支払うことは、あまりに面倒くさかろう、との結論に行きつくことが多々だった。


『20歳の自分に受けさせたい文章講義』についてもそうだ。

お気楽なぼくは刊行当時、「これをみんなが読んだら、みんな文章がうまくなっちゃうよなあ。商売敵を増やす結果になっちゃうよなあ。まあ、負けるわけないけどね。うふふ」なんて、のんきにもほどがある想像しかしていなかった。

ところが実際に現れたのは、同書の内容をそのまま剽窃して有料セミナー等を開催する、「自称・文章の達人」だった。

こちらも悪質なものについては法的措置を検討したものの、最終的にはセミナーの中止と該当記事の削除を求めるところまでしかできなかった。きっといまも、ぼくの知らないところで、いろんな人がいろんなかたちで似たようなことをやっているのだと思う。



そんないろいろを踏まえたうえで、文章っておもしろいなあ、の話をしたいのである。これはぼくの個人的な印象の話であり、例外とそれを論拠とした反論はたくさんあるだろうけれどまあ、ひとつの見解として読んでほしい。


世のなかの文章は、おおきくふたつに分けられる。


ひとつは「見つけてほしい文章」だ。

あの人に見つけてほしい。この人に届いてほしい。こんな人たちに読んでほしい。よりたくさんの人に広まってほしい。どこまでも遠く、ひとりの例外もなく、読んでほしい。そんな願いを込めて書かれた文章である。


そしてもうひとつが「見つからないでほしい文章」だ。

あの人には見つからないでほしい。こんなことを書いていると、気づかないでほしい。あの人の目に触れず、バレないでほしい。そしてタネ明かしを、しないでほしい。剽窃まじりでつくられた文章には、書き手の「見つからないでほしい」が、かならず混入する。剽窃でなくとも、たとえばロジックのあやしさを自覚しながら書かれた文章には、やはり「見つからないでほしい」が混入する。


そしておもしろいことに、「見つからないでほしい文章」は、その後ろ暗さゆえなのか、結局のところおおきく広がらないのだ。読者は明るいものを求めていて、その明るさとは書き手の純粋な「見つけてほしい」から生まれるものなのだ。


ぼくがいま書いてる本、これはもう最初から最後まで、ぜーんぶ「見つけてほしい」ですよ。そこまで持っていくために、こんなに時間がかかっているんです、とも言えるし。

郷に入ってはひろみに従え。
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ライター。バトンズ代表。著書・共著「嫌われる勇気」「古賀史健がまとめた糸井重里のこと。」「20歳の自分に受けさせたい文章講義」など。週日更新しています。http://www.batons.jp

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