思い出したら、それは。
朝、シャワーを浴びながら鼻歌を口ずさんでいた。
どこから降って湧いたのかわからないけれど、ぼんやりうろ覚えの歌詞のまま、森山良子さんの『今日の日はさようなら』を歌っていた。小学校の卒業式だかなにかで歌った、夕暮れどきの空を思わせる歌だ。何度かリピートするうち、ちょっと待てよ、と思った。
いつまでも 絶えることなく
友達でいよう
明日の日を 夢みて
希望の道を
歌い手は、いつまでも友達でいることを願って、その将来を友に呼びかけている。
空を飛ぶ 鳥のように
自由に生きる
今日の日は さようなら
また会う日まで
再会の日に向けて、さよならするふたり。明日や明後日に再会するような状況ではなく、いつ会えるとも知れない別れの日を迎えているのだろう。
だとすれば、おいおいおい。
冒頭で歌われている「いつまでも 絶えることなく 友達でいよう」とは、どういうことだ。きみたちは会えていないあいだもずっと、友達なのか。10年後や20年後、いや50年後に再会を果たしたとして、その数十年間もずっと、きみたちは「友達」なのか。
転勤族の息子として引越だらけの幼少期を送ってきたぼくは、幼なじみがいない。そして故郷を離れ、同窓会に顔を出したこともないぼくは、幼少期から学生時代にかけての友達たちを、基本的に過去形で語ってきた。あのころは仲がよかったけれど、大親友と言ってもいい仲だったけれど、もう友達とは言えない。だって、何年・何十年も会っていないし、連絡先さえ知らないんだもの。そんなふうに思ってきた。
しかし、うろ覚えの鼻歌によれば「いつまでも 絶えることなく 友達」でいることは、可能なのだ。そういう関係も存在するのだ。
へぇー。そんなふうに考えてもいいのかあ。
仲のよかった何人かの、顔が浮かんだ。
小学生だったり、学生服姿だったり、ジャージ姿だったりする、おとなになった顔がまるで想像できない友達たちだ。このまま会えなくてもいいなあ、と思った。こんだけしっかり顔が思い浮かんでるんだもん。もうそれで十分だよ。なんとなく、そう思った。