見出し画像

心の人工衛星を旅させて。

ぼくは福岡の出身である。

転勤族の息子だったものの、ずっと福岡県内をぐるぐる住み替わっていた。福岡市で生まれ、北九州市に移り、大川市、また福岡市、柳川市、また北九州市などなど、引越をくり返していた。それでもまあ、おおきく言えば「福岡の出身」である。大学も、最初の就職先も福岡だ。

そんな自分もいつの間にか、福岡県民として過ごした時間よりも東京都民として過ごす時間のほうが長くなっていた。「福岡の出身」ではあるものの、もはや「福岡の人間」ではない。かといって東京の人間って感覚もないし、うーん。

なんて話も、海外に行けばどうでもよくなる。東京も福岡も知ったこっちゃない。フロム・ジャパンの日本人だ。それどころか日本人という枠さえなくなり、ただ「アジア系の人」になるのかもしれない。隣国の人びとと「米、おいしいよねー」と言い合うのかもしれない。

となれば当然、発想は宇宙に広がる。

宇宙に出て、異星人との交流が生まれたりしたならば、ぼくらはみんな地球人だ。英語もインドネシア語も日本語も「地球語」と言ってよく、「地球人同士、なかよくやろーぜ」みたいな連帯感も生まれるのかもしれない。「まじで火星人って、むかつくよねー」みたいな。

じゃあ、その先はあるのだろうか。

つまり、地球人と火星人とホニャララ星人とがおおきく「宇宙人」とまとめられるような空間は、ありえるのだろうか。

もしもこの宇宙が有限で、その先に「宇宙ではない空間」があって、どういう理屈かそこにも知的生命体が存在して、ぼくらと交流する機会があったならば「宇宙人」なるカテゴリーもありえるだろう。火星人やホニャララ星人たちと一緒に「はやく宇宙に還りたいよねー」とか「三次元なつかしー」みたいなことを言い合う場面もあるのだろう。五次元的な空間のなかで。


……ってくらいまで心の人工衛星を旅させて、いま一度自分の立っている場所に戻ってくる。現実の隣近所を眺めてみる。イライラも、もやもやも、ずいぶん鎮まっているはずだ。人工衛星の性能さえよければ。