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敬意よりも大切な、不可欠なもの。

インタビューってのは本来、ものすごくむずかしいものなんです。

ぼくが有名人に、たとえば大谷翔平さんみたいな方にインタビューするとしましょうか。インタビューを受けるのって、面接を受けるのと似たところがあって、基本的に「訊かれたことに答える」ものなんですよね。だから、仮に大谷さんが「バッティングフォームの話がしたいなあ」と思っていたとしても、ぼくがその話を振らなければ、大谷さんは別の話をせざるを得ないわけです。

だから、インタビュアーの質問がトンチンカンであれば、大谷さんはなにひとつとして「言いたいこと」を言えずに終わるわけです。

その最たる例が、来日したハリウッドスターや監督へのインタビュー。日本のメディアって、決まって「好きな日本食は?」とか「日本で行きたい場所は?」とかの質問をしますよね。それで最後に「では、日本のファンにメッセージを」と振って、「劇場で会いましょう!」とか言わせて終わらせる。

いや、映画の話を訊いてくれよ。演技の、演出の、あのシーンの話を、そしてこの映画のテーマを、そこにある問いを、ちゃんと訊いてくれよ。

……いくら当人たちがそう思っていても、「訊かれたことに答える」のがインタビューである以上、ハリウッドスターや監督たちは「ラーメンが好き」と答えるしかないわけです。

そしてもうひとつ。これはインタビュー記事にかぎった話になりますが、その記事を書くのは当然、ライターですよね。大谷翔平さんなら大谷翔平さんの口から語られた話をどのような流れでまとめて、どんなことばを取捨選択するか。それはすべてライターの技術や判断にかかっています。書いている段階において、その原稿はライターのものです。

でも、いったんその記事が世に出てしまうとそれはすべて「大谷翔平さんの発言」になるんですよね。わたし(ライター)の原稿であることを離れて、「大谷さんが言ったこと」になる。

これ、いくらご本人に原稿チェックをお願いしたとしても、ものすごくおそろしいことなんです。その、他人のことばを預かる重みというものは。


しばしばぼくは、若いライターさんたちに向けて「取材対象者への敬意」が必要だ、という話をしてきたのですが、ほんとにほしいのは敬意どころじゃないんですよね。相手に対する敬意と、書くということに対する畏れ。その「畏れ」の部分を忘れない物書きでいたいなあ、と思っています。

実際、書けば書くほど「畏れ」は増していきますし。