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そのうちまた、よくなるのだから。

あれは1997年、ぼくがライターの職を得たときのことだった。

男女雇用機会均等法の改正を受け、職業にまつわる(主に)女性名詞が廃止され、性別を問わない職業名が使われることになった。スチュワーデスさんは客室乗務員やキャビンアテンダントに、看護婦さんは看護師に、保母さんは保育士に、助産婦さんは助産師に、カメラマンはフォトグラファーに、といった具合である。

いまにして思うとこれ、まさにポリティカル・コレクトネスに基づく言い換えなのだけれど、バカボンだった当時のぼくの感覚を包み隠さずにいえば、90年代前半の、筒井康隆さんによる断筆宣言に象徴される、「ことば狩り」の議論に近いものを感じたのも事実である。それは作家やエッセイストたちも同様だったようで、メディアでは「堀ちえみの『スチュワーデス物語』は『客室乗務員物語』になるのか」みたいな冗談がよく語られていたものだ。

あれから20年以上の歳月が流れ、客室乗務員や保育士といったことばが当たり前になったいま、「あのとき多少強引にでも呼び名を一斉に改めたことはよかったんだなあ」と思う。ふるい常識に縛られていた自分、無知と無自覚がもたらすもののおおきさなどを、しみじみ噛みしめる。


しかし去年、あるいは一昨年のことだっただろうか。

原稿のなかに「婦長さん」ということばを書きそうになって、はたと立ち止まった。婦長さんは、どう考えても「看護婦の長」である。そもそも「婦」という漢字が入っている時点で、役職名としておかしい。けれども医療や病院に縁遠い自分にとって「婦長さん」以外のことばが思い浮かばない。看護師の長なのだから「師長さん」とするのがいちばんまっとうな流れなのだけれど、どうもその響きがピンとこない。

けっきょく、いろいろ調べた結果「師長さん」が正解だったのだけれど、むずかしいものである。職業名の再インストールが済んだと思っていたぼくにもまだ、90年代以前の語彙が残っていたのだ。きっとまだまだ、無意識下に残っていることばや感覚がいっぱいあるのだろう。


という話を書いたのは、ポリティカル・コレクトネスまわりについて考えていたからではなく、ここ数日の自分を思ってのことである。

最近どうも、不調が続いている。

原稿がはかどらず、悶々とした日々を送っている。

こういうときのぼくは、「悩んでいる」とか「苦しんでいる」とは考えず、間違っても絶望したり、自分を疑ったりはせず、ただただ「不調」なのだと考える。

いまの自分は、調子がよろしくないのだ。そして調子は、そのうちよくなるのだ。そのときがくるまで、じっとしていよう。そんなふうに考える。

そして不調、不調、不調、と念仏のようにつぶやいた結果、本日の note が書かれたのである。