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コスパに優れた答えを差し出すのではなく。

学校は、だれのものか。

そう問われればみんな、生徒のものだと言う。学校とは、生徒(児童・学生含む)が学ぶための場としてつくられたものだ。なにをいまさら聞いているんだと話を閉じる。しかしながら制度としての学校を設計するのは、おとなである。コンテンツとしての授業を提供するのは、教師である。そしてなにより、教師はずっとそこにいる。入学式の日に生徒を迎え入れ、卒業式の日に生徒を見送る。そしてまた次の年度に、あらたな生徒を迎え入れる。なのでどこか、生徒は「お客さん」のように学校に籍を置き、教師は家主のように生徒を監視する。けっきょく学校という場の貸主は教師となり、「学校は生徒のものだ」が、ただの原則論としてしか響いてこなくなる。

ほぼ日刊イトイ新聞さんで連載されていた「学校では教えてくれない 勇気の授業」が本日最終回を迎えた。昨年の秋に群馬県立前橋高校さんで、高校生たちを前におこなった糸井重里さんとの対談イベント(授業)だ。

いちおうぼくの立ち位置は「嫌われる勇気とかいう本を書いた人」。そして糸井さんは群馬県の先輩であり、前橋の先輩であり、前橋高校の先輩でもある「あの糸井重里さん」。「お父さんやお母さんが、また学校の先生たちがたまに口にする、あの糸井重里さん」くらいが、高校生にとっての正直な実感だったのかもしれない。

会場の高校生たちは、ぼくらの話を真剣に聴いてくれた。マスクをしていてもわかる。メモを走らせる音が聞こえなくてもわかる。真剣そのものな目がずっと壇上のぼくらをとらえていた。

そして対談パートが終わったあとの質疑応答。かしこぶるのでもなく、ウケを狙うのでもない真剣な質問が、いくつも飛んできた。


「アドラーの推奨する他者への貢献とは、評価を目的とした『嫌われないため』の手段ではないのか?」

「なぜ人は嫌われたくないのか? 嫌われることを恐れず前に進むにはどうしたらいいのか?」

「自由な人を見ると、うらやましく思う。わがままな人を見ると、嫌だなと思う。『自由』と『わがまま』はどこが違うのか?」

「自分の核となる感情を見つけたとき、どう対処すればいいのか?」

「地球上すべての文章が失われようとしているとき、糸井さんと古賀さんはどんな文章を残したいと願うのか?」


ひとつひとつの質問に驚き、精いっぱいに答え、こうしてコンテンツ化されたやりとりを読み返して、あらためて思った。

学校は、生徒のものだ。

学校を、そして授業をつくるのは、他のだれでもない生徒なのだ。

そして教師の役割とはたぶん、答えを教えることではなく、一緒に考えることだ。新鮮で真剣な問いを、一緒に考える。固定された解を差し出すのではなく、そのつどホカホカでふわふわの解をひねり出す。その妥当性をまた、一緒に考える。それがいちばん理想的な学校の姿ではないだろうか。

もちろん進学のこととか、学習指導要領的なこととか、現実的な評価・採点のこととかを考えると、そればっかりやってるわけにはいかない。おとなたちが通う(たとえば)ライタースクール的な場でも、「答え」のみを効率的に教えてもらおうとする人はやたら多い。実用的な「答え」を差し出さないと、「お金と時間を無駄にした」みたいに言われる環境はたしかにある。

でもなあ。ぼくはコスパにすぐれた答えを差し出すコンテンツよりも、読者と一緒に考えるようなコンテンツをつくっていきたいんだよなあ。そして『嫌われる勇気』はたぶん、そういう本だったんだろうなあ。

いま進行中の新刊ともおおきく関係する、とてもありがたい時間でした。

あらためて前橋高校のみなさん、ほぼ日のみなさん、糸井重里さん、どうもありがとうございました。