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腕時計をして、出かけた。

ひさしぶりに、腕時計をした。

大事な対談の収録があり、ジャケットを着て出かけたからだ。ジャケットを着るときぼくは、かならず腕時計をするようにしている。時間を確かめるためではない。袖口からのぞくシルバーの腕時計が視界に入るたびにぼくは、「よし。おれは今日、ちゃんとしてるぞ」と安心感を得る。ある種のおまじないの道具として、ぼくは腕時計を着用している。

携帯電話の普及以降、腕時計ほど個々人の価値観が立ちあらわれる装飾品はないように思われる。「ケータイ(スマホ)があれば腕時計なんていらねえじゃねえか」と、腕時計をしない人。「時間がわかればなんでもいいじゃねえか」と、あえて格安の(しかし丈夫な)腕時計をつける人。あるいは「これがいちばん便利でしょ」と、スマートウォッチを身につける人。それから当然「いやいや、腕時計というものはそういう機能ではなくして、装飾品なんだから」と、自分の気に入ったブランドの気に入った型番の腕時計をつける人。いろいろである。

前にも書いた気がするけれど、心理学の世界には「拡張自我」という概念がある。

高級腕時計、高級スーツ、高級靴、あるいは高級車。これらはすべて「わたし」の拡張概念であり、たとえばロレックスの高級腕時計を身につけている人は、「ロレックスほどの高級腕時計を身につけているわたし」までが自我のおよぶ範囲となり、人は(自慢に値する)持ちものが増えれば増えるほど自我が拡張していく。それゆえ「若さ」という資産の目減りを実感しはじめた人はラグジュアリーブランドに引き寄せられ、装飾品で身を固め、自我の崩壊を食い止めようとする。……と、そんな感じのことを以前、心理学の先生から教わった。

けれどもそれもバブル時代にまで通用するマテリアルな話で、いまの時代の拡張自我は「いいね」的な、非物質的な、承認のなかにあるのだろう。ソーシャルメディアに流れる文字列を読みながら、しばしば「みんな自分が好きなんだなあ」と思うことがあるのだけど、それもソーシャルメディアのなかに拡張自我が及んだ結果のふるまいなのだろう。


たぶんぼくにも(比喩としての)ロレックス的な拡張自我を追い求めた時期があり、「いいね」的な拡張自我を追い求めた時期がある。そしていま、その矛先はぜんぜん違った方向に向かいつつあるようだ。

……そんなことを再確認できた、ある方との対談。またどこかで掲載のお知らせができると思います。