「おもしろい」より大切かもしれないこと。
おもしろい本をつくりたいと、つねづね思っている。
たとえば『嫌われる勇気』という本にせよ、『取材・執筆・推敲』という本にせよ、ベースにあるのは知識の習得である。アドラー心理学の根幹を知ること。ライターに必要なものを体系的に知ること。それを目的に企画されている。しかしながら、その目的をかなえるためには「読みものとしてのおもしろさ」が欠かせない。論文のように、また指定教科書のように書かれたそれは、なかなか読みとおしてもらえないし、こころにも残らない。コンテンツは、おもしろさが命だ。
長らくそう考えてきたのだけれど最近、別のことばでコンテンツの価値を考えるようになってきた。
すなわち、「うれしい」である。
わかりやすい例を挙げるなら、ほぼ日刊イトイ新聞だ。「ほぼ日」は、毎朝11時に更新される。それがもう25年も続いている。なのでいまでは、11時を過ぎると、ちょっとうれしい。「きょうの糸井さんはどんなこと書いてるのかな?」とクリックする瞬間、もううれしい。おもしろいとかおもしろくないとかよりも先に、「うれしい」があるのだ。
あるいは、はじめての本を読んでいるときにも、「おもしろい」ではない、「うれしい」で胸がいっぱいになることがある。すごい本を見つけたとか、すごい作家を見つけたとか、ようやく自分にぴったりな本に出合えたとか、そういう「うれしさ」だ。これは「おもしろい」を超えたなにかだろう。
もうひとつわかりやすい例を挙げるなら、タランティーノ監督の最新作を観るとき。冒頭から炸裂する、いかにもタランティーノ的な世界に対して「きたきたきたーっ」と興奮し、にやにやする。これなんかも、「おもしろい」より「うれしい」と表現するのがふさわしい感情だろう。
さて、ここで登場するのが「推し」なることばである。
たとえば推し活ということばは、「積極的な応援をともなうファン活動」くらいの意味で理解されている。しかし、「わたしは○○のファンです」と言うときと、「わたしの推しは○○です」と言うときとでは、「わたし」の立ち位置がまったく違う。○○のファンであるときのわたしがワンノブゼムに埋もれがちである一方、○○を推すわたしは人生の主人だ。
そして、自分にとっての推しを見つけ、推しを推す、その根底にある感情とは「うれしい」なのだと思うのである。
対象はなにもアイドルにかぎらない。俳優でも、お笑い芸人でも、スポーツ選手、作家やミュージシャンでも、だれでもいい。推しがいる人生とは、「うれしい」がある人生なのだ。
じゃあひるがえって自分が、だれかの推しになれるのか。
さすがにそれはちょっと、むずかしそうな気がする。けれどもがんばれば、「うれしい本」はつくれそうな気がする。読んで、うれしくなる本。それを選んだ自分を、うれしく感じる本。
もちろん「おもしろい」を大前提としながらも、「うれしい」ということばが持つ可能性をいま、あれやこれやと考えている。