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もしも自分がここにいたなら。

たとえば記者会見の中継を見ているとき。

ぼくはいつも「自分が(記者として)ここにいたなら、どんな質問するかなあ」と思いながら見ている。会見の流れ、前の記者が訊いたこと、それに対して語られたこと、などを勘案しながら「いまここで、次におれが当てられたなら、なにを訊くかなあ」と考えている。

当然ながら、ぼくはそこにいない。なのでなにも訊けない。別の記者が、別の質問をする。そうすると次には「いまの質問に対して、おれだったらなんて答えるかなあ」を考える。質問者として、なにをどう訊くか。回答者として、なにをどう答えるか。その両方を交互に考えていたら、記者会見は非常におもしろいエンタメになるし、勉強にも取材の練習にもなる。


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「もしも自分がここにいたなら、どうしてるだろうなあ」

さすがにそうは思えなかった。昨夜のサッカーワールドカップ決勝である。いるはずがない。仮定の話として考えることもできない。かろうじて考えることができるとしたら「もしも今回の日本代表がここにいたなら、どうしてるだろうなあ」である。

試合の展開からどうしてもフランスの立場で考える。大会前から怪我人が続出していてベストメンバーではない。準決勝のあと、体調不良者が何人も出てまったくベストコンディションではない。しかも中4日のアルゼンチンに比べてこちらは中3日。前半からやたらと元気な相手チームは高い位置からプレスをかけ、なかなか思いどおりの展開にならない。果てには前半のウチに2点を先制され、スタジアムはアルゼンチンサポーターで埋めつくされ、世界全体が「メッシの花道」を準備している。後半も30分を経過し、勝ち負け以前にへろへろだ。

あきらめることはしないと思う。最後までボールを追いかけるし、なんとか一矢報いてやろうとがんばると思う。その全力に、嘘があるとは思わない。けれども心のどこかで「これは負けゲームのパターンだ」と思ってしまうのではなかろうか。「1点取ればわからない」とは思いながらも、「勝つ!」とまでは思えないんじゃなかろうか。


しばしば簡単に「経験の差」ということばが語られるけれども、「こういうゲームを落としてきた経験」と、「こういうゲームをひっくり返してきた経験」とのあいだにはまさに雲と泥の差があって、ただ国際舞台で場数を踏むだけの経験じゃなくって、「国際舞台で勝つ」経験がほんとうの経験と言えるんだろうなあ、と思った。負け試合を何十と経験しても、それは負の経験にしかならないのかもしれないなあ、と。


負け(失敗)から学ぶことがあるって理屈はもちろんわかるけどさ。「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」もわかるけどさ。ほんとうに強い人、強いチームってのは勝ちから学んでるんですよ、たぶん。

なんか、すげえ「お前はどうする?」を突きつけられた決勝でした。