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そしてわたしが見る夢は。

オフィスの観葉植物が枯れる夢を見た。

なんら夢らしい不条理のない、まるで現実の延長としか思えない、しかも大騒ぎするほどの事件性もない、退屈な夢だった。もちろんここで「植物を枯らしてしまう夢」など検索すれば、もっともらしい夢診断の結果がヒットしたりするのだろう。しかしながら、ぼくは知っている。これはそんな大層な深層心理のあらわれなどではなく、ただの夢だ。記憶の錯乱だ。

十数年前、ビジネス書の世界にちょっとした脳ブームが訪れた。根拠のない勘や根性に頼ったスキルアップではなく、脳科学に基づいたスキルアップを図るべし、との言説がその界隈を席巻した。それでぼくも何冊か「脳トレ」的な本をつくったのだけれども、まっとうな脳科学者ほど「脳のことなんてまだなにもわかっていない」と答え、編集者を困らせるのだった。

それでも当時聞いた話として、いくつか「なるほどなあ」と思ったことがある。そのひとつが脳科学的に見た「夢」の話だった。

当時に聞いた記憶のままに当てずっぽうで書くと、夢とはどうやら「記憶」の工場みたいなものらしい。

われわれは、その日に見たこと、聞いたこと、考えたこと、心配したこと、などさまざまな情報を、睡眠時に長期的な記憶として固着化させていくのだという。ただしその作業はけっこう乱暴で、仮に10個の情報があったとした場合、その10個をどさどさミキサーに投入したのち、わんわん攪拌させつつ記憶の引き出しに整理していくのだそうだ。いや、あくまでもイメージ上の話ではあるが。

そして夢が荒唐無稽なストーリーになりがちなのは、まさにこの「攪拌されるミキサー」のぐるぐるを見ているからなのだという。つまり、そこではいくつもの情報があり得べからざる順番で認知・再生されてしまうため、それを物語として理解しようとしたときに「荒唐無稽な夢」になるのだと。

この話(またぼくの理解)が科学的に正しいのかどうかはともかく、なるほど納得のいく説明だった。同時にまた、夢診断的なものの無意味さが、よくわかるものだった。

とはいえ、これだと昨日のぼくのような平々凡々たる夢の正体をうまく説明することにはならない。毎日波乱万丈のジェットコースター的ストーリーを見ていないと、理屈が通らない。

けれどもまあ、連休明けからずっと観葉植物の水やりがあたまにあったのは事実であり、その夢を見たおかげで本日ぼくは重い腰を上げて観葉植物に水をやったのである。


ちなみにぼくがいちばん頻繁に見る夢は、「編集者からのメール」の夢だ。めちゃくちゃによろこんでくれていたり、でたらめに厳しいことが書かれていたり、おどろくほど無味乾燥なものだったり、とにかくメールにこころを動かされている夢を、ほとんど毎日のように見る。忘れてしまっただけで、きっと昨日も見ているはずだし今日もまた見るだろう。