見出し画像

それ以外を好きになってから。

しばしば書くけれどもぼくは福岡の出身である。

そしてどうだろうなあ、上京してから数年のあいだは、なかなか東京という土地に馴染めずにいた。友だちもいなかったし、当初は仕事もなかった。どうにか仕事がまわりはじめてからも、「おれは『これ』をやりたかったんだろうか? 『こんなこと』をやるために上京してきたのだろうか?」との思いが拭えなかった。帰ることはしないけれど、福岡を懐かしく思っていた。

馴染めなかったのは仕事まわりだけではない。食べものにもまた、馴染めなかった。ラーメンの味に、うどんに、もっと言えば関東の醤油や味噌汁に、馴染めなかった。

そのためかろうじてできた友だちに、「福岡のラーメンがどんなにうまいか」の話をよくしていた。うどんのおいしさ、あまくてコクのある醤油のおいしさ、刺身醤油という醤油の存在、それをつけて食べる寿司や刺身のおいしさなど、ちょっとした福岡アンバサダー並みの獅子奮迅ぶりを見せていた。

しかし、である。

福岡のおいしい料理を語るときのぼくは、決まって「関東のまずいめし」を引き合いに出していた。こんなのラーメンじゃないとか、あんなうどん食べていられないとか、定食屋の焼き魚が臭すぎるとか、そういう「きみたちの料理」の否定のうえに、福岡のおいしい料理を語っていた。もっとおいしいものがあるんだ、みんなこれを知ってくれ、いや知るべきだ、と。

ニコニコ笑いながら、黙って聞いてくれた先輩や後輩、友だちたちに感謝しなきゃなあ。当時の自分は自分のことしか見えてなかったなあ。いまさらのように、そう思う。

だって、たとえば外国の友だちが日本料理をガンガンにけなしながら自国料理をおすすめしてきても、あんまりいい気持ちはしないものだ。たとえその料理がおいしかったとしても。

そしてなにより、比較や否定を通じてしか「福岡のおいしい料理」を語れなかった若き日の自分は、ほんとうのところではそのおいしさを理解できていなかったように思うのである。


へんな話、福岡の魅力をほんとうに知って、ほんとうに好きになったのは、東京のことを好きになってからだもの。

東京に友だちができて、いくつか満足のいく仕事ができるようになって、土地の味つけに慣れて、好きなお店もたくさんできてようやく、フラットな目で福岡を見れるようになったんですよね。やっぱりいい街だなあって。

「それ」しか知らないこと、そのうえで「それ以外」を否定すること。原稿を書くにあたっても、とても危険なことだと思っています。