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「ばか」の正体を考える。

自分を見つめ、世のなかを見渡そうとするとき。「ばか」のひと言は、どんだけ考えても考え尽きることのないテーマだ。


「ばか」とはなにか。

それは「ばれること」である。隠しおおせていたつもりのなにかがばれたとき、ひとは「ばか」の烙印を押される。無知、無教養、無思慮、浅薄、不見識。それらは別に「ばか」ではない。あってしかるべきなにかが欠損した状態を「ばか」と呼ぶのではなく、隠し通そうとしたおのれの欠損が白日の下にさらされたとき、ひとは「ばか」のそしりを受けるのだ。


じゃあ、おのれの「ばか」は、どういうときに「ばれる」のか。

これはもう、「かしこぶったとき」である。かしこぶって聞きかじりの浅知恵を披瀝したとき、偉ぶってわかったような口をきいたとき、その底の浅さは見事に「ばれる」。このひとにばれていないつもりでも、別のあのひとには、ばれている。考えてみれば、皮肉なものだ。ひとは、ばかなやつだと思われないために、たいしたやつだと思われるために、かしこぶる。ところがその「かしこぶり」のせいで、おのれのばかっぷりをさらしてしまう。


だったら、いっそ黙っていたほうがいいのか。

それもたぶん、違う。保身のための沈黙は、「黙ってれば大丈夫」という舐めくさったあなどりもふくめて、ばれている。よしよし、ばれてないぞ、と愛想笑いする頬のこわばりもぜんぶ、ばれている。沈黙が価値を生むには、その関係が「信頼」によって結ばれている必要がある。信頼なき場での沈黙は、ただのやり過ごしとして、余計に信頼を損ね、ばかをばらす結果となる。


けっきょく、どうしたらいいのか。

かしこぶることなく、おのれの「ばか」を認め、上にも立たず、へりくだることもせず、自分に語れる範囲のことばで語り、自分に語れる範囲のことばを増やしていくことだ。知識の量にかかわらず、「あとからばれるもの」が少なければ少ないほど、ばかの雨は避けやすくなる。「ばか」とは状態を指すことばではなく、行為の結果を表すことばなのだから。


「ばか」についてはもっともっと考えて、思いを更新していきたいと思っています。