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天才について考える。

天才は、やっかいなものだ。

さまざまな分野で活躍する天才たちについて、かつてのぼくは仰ぎ見ることしかできなかった。尊敬したり、見倣ったりするなんて、とんでもない。富士山やナイアガラの滝を見るように、ただただ「すげえなあ」とあきれ果てるだけだった。理解しようともしなかったし、できるとも思えなかった。

しかし、辞書を引くのは大切だなあ。あることばとの出会いで、その考えを改める。広辞苑の第七版、「インスピレーション」の項に登場する、こんな一節だ。

インスピレーション【inspiration】

創作・思索などの過程において、ひらめいた新しい考えで、自分の考えだという感じを伴わないもの。天来の着想。霊感。

天才の天才性について、「天賦の才」や「生まれついての才覚」などのことばで片づけているうちは、なにもわからない。考えは行き止まる。しかし、インスピレーションの中核を説明する「自分の考えだという感じを伴わないもの」ということばを頼りに考えを進めていけば、別の風景が広がってくる。

天才は、みずからの考えだという感じを伴わない発想や着想を頼りに、生きている。天才は、自らの仕事(行為)を言語化するに至っていない。いや、言語化や相対化の必要を感じていない。言語(思考)をすっ飛ばしたところで、「やったらできた」の世界に生きている。

現役時代のイチロー選手が典型なのだけれど、一流のアスリートやアーティストは、みずからが天才扱いされることを、ことのほか嫌うものだ。ここには当然、なんでも「天才」のひと言で片づけたがるメディアへの反発もある。天才のひと言でまとめるなんて、サボってんじゃねえよ。お前らもプロなら分析・分解・解説してみろよ。そういう反発は当然ある。

しかし、それ以前に「自分は、自分のやっていることを言語化できている」との自負が、つまり「自分には『理』がある」との自負があるからこそ、彼らは天才と呼ばれることを拒否するのではないか。

もしもそうだとすれば、天才を見る目はおおきく変わってくる。

世のなかには、超一流の天才もいるし、三流の天才も、五流の天才もいる。感覚だけに頼り、自分の考えだという感じを伴わないまま、みずからのおこないを言語化できないまま、コトに当たっている人たちは、等しく天才である。超一流のスーパーマンだけが天才ではない。能力を脇に置いたときの天才とは、理を持たない(自分の考えだという感じを伴わない)人びとすべてに与えられるべきことばなのだ。

天才であること、つまり理を持たず、みずからを言語化できていないことの欠点はやはり、再現性にある。

なんらかの理由で才能が枯渇したとき、スランプにおちいったとき、理のない人びとはなかなか泥沼から脱出できない。また、あたらしいやり方や分野に挑戦することもむずかしい。なにをどう変えていけばいいのか、わからないのだ。時流に乗ったときの攻撃力は高くとも、防御にまわると途端に弱くなるのが、感覚型の天才たちだ。



……というような話を、執筆中の本に詳しく書こうとしていたのだけれど、まだまだ自分のなかで固まりきれていないところも多く、入れないことにしました。で、ここに書いてみることにしました。「天才」はねー、ぼくのなかで永遠のテーマなんですよ。