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見つけた自分のうれしさを。

さまざまの本を読んでいると、「見つけたっ!」と思う瞬間がある。

本そのものを見つけたのではなく、その書き手のことを「見つけたっ!」と思うのだ。「こんな人がいたんだ」「ああ、なんかおれ、この人のこと大好きだぞ」「これは絶対にほかの本も追いかけなきゃ」「だって、この人の書いた本なら、おもしろいに決まってるもの」。そんなふうにひとり興奮し、その場で過去作を買いあさる。

もちろんこれは「見つけた」わけではない。「知らなかった」だけである。その人はむかしから存在していたし、何冊もの本を書いていたりする。とうのむかしに編集者から見つけられ、おおきな期待とともに本の執筆を任されていたのだ。いや、それどころか自分が知らなかっただけで、その人は界隈では有名な大家だったりする。

過去において、ぼくがいちばん「見つけたっ!」を感じた作家は、カート・ヴォネガットだった。ハヤカワSF文庫の棚を物色中、和田誠さんの手によるカバーが目を引いた。解説文を見ると「鬼才がSFの持つ特色をあますところなく使って活写する不条理な世界の鳥瞰図!」との文言が踊っていた。なんだか知らないけどおもしろそうだ。迷わずレジに持っていった。当時(20歳過ぎ)のぼくは、なぜか「不条理」って言葉に弱かったのだ。

読んで、一発で持っていかれた。まさに「見つけたっ!」だった。その場で全作を買い占めるほどの財力は、ぜんぜんなかった。一冊読むたびに書店に出掛け、一年ほどかけて全作を読み通した。幸運なことに周囲にヴォネガット好きがいなかったため、「ぼくだけの作家」として数年間の(自分勝手な)蜜月を育むことができた。

もしも当時インターネットがあり、ウィキペディアやアマゾンやがあったなら、あの「見つけたっ!」の興奮はずいぶんおとなしいものだったんじゃないかと思う。検索の末、10分後には「知ってた」の顔で生きていた可能性だってある。


いまでもぼくは「見つけたっ!」の書き手に出会うと、なるべく検索をしないまま他の著作を買い求めるようにしている。相手がシェイクスピアであろうとトルストイであろうと、自分勝手な「見つけたっ!」はありえる。

そして無知なる自分の「見つけたっ!」こそが、ライターにいちばん大事な初期衝動なのだ。