好きだったなあ、「インターネット」。
ああ、「インターネット」は終わったのだなあ。
きのう風呂に入りながら、つくづくそう思った。きっとかしこい人たちはとっくに気づいていて、いろんな場所で語っていることなんだろうけれど、ようやく自分のことばで、その理解に追いついた。ぼくが本格的に「インターネット」をはじめたのはたぶん、1996年から1997年にかけてのことだ。そこから20年以上の月日が流れたいま、あの「インターネット」は完全に終わっちゃったんだなあ、と思う。
はじめて「インターネット」に触れたときの興奮は、いまでも忘れられない。ずっとむかしの時代、「電話」や「テレビ」にはじめて触れた人たちと、もしかしたら同じくらいに興奮したんじゃないかとさえ思う。
文字どおりに、世界は「つながった」と思った。
たとえば検索窓に「Allman Brothers Band」と入力する。検索ボタンをクリックする。すると彼らが来週、ニューヨークのビーコンシアターでコンサートをおこなう、みたいな情報が出てくる。公式の情報もあれば、「この前のアトランタではこんなセットリストだった」みたいなファン発の情報もある。「当たり前じゃん」と思う人も多いだろうが、こういうちいさないちいちが、まったく当たり前じゃなかったのだ、「インターネット」以前は。
そしてまた「インターネット」は、すべてがほんとにつながっていた。原理的にいえば、行けない場所はどこにもなかった。リンクによって、あるいは検索エンジンによって、すべてつながっていた。パソコンのなか、ブラウザというドアをつかえば、どこにだって飛んでいくことができた。それが「インターネット」というものだった。
ところがスマートフォンの登場によって、その構造はおおきく変わる。
みんなブラウザを入口とせず、アプリを入口にして、情報にアクセスするようになった。たったひとつだった入口が、何十・何百にも増えていった。
いま、ぼくらはブラウザというドアを入口にして、たとえば LINE の空間に入っていくことができない。何十・何百というアプリは、つながりを失った小部屋としてそれぞれ、発展・成長・熟成している。宇宙のぜんぶまで包括したような「インターネット」の空間より、閉じられた小部屋のほうが熱量は高い。アプリの小部屋がこれからどうなるかは別にして、あの、たったひとつの入口によってつながっていた「インターネット」は、もう終わったのだ。少なくとも「それがすべて」ではなく、行けないところだらけになったのだ。
すみません、メディア論とかに詳しい方々からするといまさらにもほどがある話なんでしょうけど、ぼくはきのうようやくここまで理解することができました。
ああ、好きだったなあ、「インターネット」。