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入口はひとつでいいのだ。

博覧強記、と呼ぶべき人がいる。

古今東西の文献を広く読みあさり、何事にも深く通じている人。辞書を引くと大抵、そんなふうに説明されていることばだ。たしかにぼくのささやかな人生、その限られた出会いのなかでも「あなた、ほんとになんでも知ってますね!」と驚かされる人は何人もいたし、いまもいるのだけど、ほんとうの博覧強記ってのはまた少し違うのかもしれない。

というのもきのう、ほぼ日の学校「Hayano歌舞伎ゼミ」で、松竹株式会社常務取締役・岡崎哲也さんの講義を受講したのだ。

講義の中身については、上記リンク記事以上のことは語れないのだけれど、お話を聴きながらぼくは、ずぅーっと博覧強記ということばの意味を考えていた。

「あれも知ってる」「これも知ってる」「それも読んだ」という雑学王な人たち。言い換えると彼らは、「入口」をたくさん持っている人たちだ。右の扉を開けては「へええ、こうなってるのかあ。なるほどねえ」とよろこび、左の扉を開けては「ああ、こっちはこうなってるのね。こりゃおもしろい」と頷き、そのまた隣の扉を開けては「おおお、ここにありましたか。やっと見つけたよ」と悦に入る。乱読家を自称する人の多くは、そんな感じで知をたのしんでいる。

一方、ほんとうの博覧強記な人、たとえばきのうお話を伺った岡崎さんみたいな人は、「入口」をひとつかふたつしか持たれていない。歌舞伎なら歌舞伎という入口から、どんどんその奥にある扉を開けてゆき、深く深く、もっと向こうへ旅をする。それは専門バカになる一本道ではぜんぜんなく、じつは映画の扉を開き、音楽の扉を開き、文学の、政治の、経済の、その他さまざまな扉を開いていく。一本の軸があるゆえ、そこで身につけた知識はほんとうにつよい。20や30の「入口」を持った雑学王とは理解の強度が違う。


浅学非才を絵に描いたようなぼくは、そのときどきに気になった扉を開いては、その深淵を見極めることのないまま元の場所に立ち戻り、また次の扉を開けていく。なので(もう処分してしまった)若かったころの本棚を眺めると、「ああ、そっちに興味を持とうとしてたんだなあ」「こっちの扉を開けようとしてたんだなあ」と、自分の迷走ぶりが映し出されるようで、ひどく恥ずかしい。

まだまだ遅くないはずなので、ひとつの「入口」から無限に広がるダンジョンを旅してみたいなあ。そんな向学心をくすぐられた、すてきな夜だった。