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地元の人に愛されてナンボ、でしょう。

週末に、気仙沼に出かけました。

立川志の輔師匠の独演会「おかえり気仙沼2024」を観るためです。もう何度となく、ほぼ毎年のように通っている落語会。もちろん気仙沼に行くのは、ひさしぶりの友だちに会うためでもあり、みなさんの元気を確認するためでもあり、おいしい食べものをいただくためでもあります。

東京からの気仙沼は、それほど近い場所ではありません。新幹線が直通だったらずいぶん近い(早い)のでしょうけど、気仙沼に新幹線は停まりませんからね。ぼくはいつも一ノ関駅で新幹線を降り、そこからレンタカーを借りて気仙沼に向かっています。やっぱり車があったほうが、市内観光にも便利ですし。

で、近くはない場所に出かけて行くには、それなりの理由というか、言い訳というか、きっかけというか、「だから行くんだ」がほしい。

たとえば3月11日に、個人として気仙沼を訪ねることは、ぼくにはできない気がします。個人としてのぼくはただの観光客ですし、その日に観光客としての自分がどこに身を置けばいいのか、うまくわからないからです(仕事として行くことはいくらでもできるし、行きたいのですが)。

そういう自分にとって、年に一度の「行く理由」があるのは、とてもうれしいことだよなあ、と毎年のように思います。そういえばお祭りって、こういうものかもしれないなあ、いま気仙沼には志の輔師匠の独演会というお祭りができつつあるんだよなあ、と。また来年も伺う予定でいますので、気仙沼のみなさん、気仙沼で出会うみなさん、どうぞよろしくお願いします。


さて、気仙沼でいただく料理はどれもほんとうにおいしいのですが、ほんとうはそれって、気仙沼にかぎった話じゃないはずなんですよね。日本全国、どこだっておいしい料理はあるだろうし、名物料理もある。海のない県、海のない市町村でも、なにかうまいものはある。たとえばそれが餃子とかだったりして。

ただ、いわゆる新興住宅地、ベッドタウンとしての発展を目標に定めた市町村だと、名物料理もなくなっているのかもしれません。その土地の「むかし」や「これまで」を否定することからベッドタウン化ははじまるわけですし、風変わりな名物料理よりも、街に行かないと食えないような料理(つまりは一般的な料理)を食いたいと思うのがベッドタウンに住む人びとの願いでしょうし。そして町おこしと称して、「ちょっと変わったB級グルメ」に活路を見出そうとしたりする。

どうなんだろうなあ。

これだけおいしいものが揃った日本において、「食」だけで観光客を集めようとするのは相当ハードルの高い話だと思うんですよ。そして仮に集められるだけの「食」があるとすれば、それはやっぱり地元の人たちが喜んでむさぼり食っている状況が先にあるはずだと思うんですよ。たとえば福岡の屋台とか、もつ鍋とか、ラーメンとか、うどんとか焼鳥とか、いちばん食ってるのは地元のおっさんですからね。「おれは食わないけど、観光客には食べてほしい」はむずかしいんじゃないかなあ。

その意味でいうと気仙沼で人気のお店は、ちゃんと地元の方々から愛されていて、地元の方々がいつものように訪ねていて、これがあるべき名物の姿だよなあ、と思ったのでした。


いや、原稿を書くのだってね。「おれは読まないけど、みんなには読んでほしい」なんて無理でしょ。それはダメでしょ。おれが常連になるような、おれが読んでてうれしいような原稿を書かないと。